……その日の空は、かなしいほど真っ青だった。





                           
 と  わ
                           
永遠なる星の空





 周辺を覆う緑が、眼に眩しい。日増しに強くなってくる陽射しが、やがてくる夏の気配をおびている。そんな光を全身に浴びながら、汗を流しているのは、青学テニス部に所属する二人の二年生であった。公園の中にあるテニスコート内を縦横無尽に走り、ラケットをふるっている。

 コートの中を飛来するボールの数は二つ。打ったかと思った瞬間には、すぐに次のボールが飛び込んでくる。下手をすれば、自らの身体で打球を受けることになるので、気が抜けない。

 ラリーが始まって、どれくらいしてからだろうか。ボールをすくい上げたの足が、勢いに負けて滑る。

「――っ……!?」

「危ねぇ! !!」

 桃城の声が飛び、はとっさにその場にしゃがんだ。沈めた身体の上方を、打球がうなりを生じて通過する。ボールはベースラインの手前で一度弾み、背後にあったフェンスに激突した。威力の凄まじさを物語る音に、青緑の双眸を持つ少年がほっと胸を撫で下ろした時、別の音がした。

「イデッ!?」

 何事かとそちらに視線を転じたの瞳に、額をおさえる親友の姿が映った。どうやら自分に気をとられている間に、もうひとつのボールが命中したようだ。慌ててネットを飛び越えて、傍に駆け寄る。

「大丈夫!? 桃!?」

「ヘーキ、ヘーキ。それより、区切りもいいことだし、そろそろ休憩にしねぇか?」

「そうだね、そうしようか」

 時計を見やれば、かれこれ二時間以上打ち合っていたことになる。具体的な数字を知った途端、身体が疲労やら喉の渇きやらを訴えてくるから不思議だ。

「何か買ってくるか。って、ここって、自販機はどこにあるんだ?」

「くる時に見たよ。確か、あっちの方だったかな」

 少しばかり心許なげではあるが、の指先が一点を示す。何分にも初めての場所であるから、自信がもてないのは仕方がなかった。

 部活のない休日は、特に目的がない限り、この少年たちはテニスの自主練習に費やしている。いつもはストリートテニス場などでやるのだが、かなり人気のある場所なので平日でも騒がしい。休日ではなおさらだ。そこで「たまには違う場所で練習しよう」と、桃城が言い出し、こうして隣街までやってきたというわけである。

 休日の午前中ということもあってか、辺りには人影もほとんどなく、公園中がひっそりとしている。それが豊富な樹木や草花を加えて、この辺り一帯を閑静な空間へと仕上げていた。

「わかった。とにかく、いってみる。は何がいい?」

「僕はお茶系がいいな」

「OK。荷物の方、頼んだぜ、

 親友に荷物の番を任せ、桃城は彼の指し示した方角へと向かった。数分とかからぬうちに、自動販売機の影が見えてきた。自分は何を買おうかと考えながら、硬貨を持った手を投入口へと運ぶ。と、その手から百円玉がこぼれ落ちた。

「おわっと!? いけねぇ!」

 慌てて視線を動かした時には、硬貨は自動販売機の下、地面とのわずかな隙間へと転がり込んでいる。桃城は腰を落として体勢を低くすると、販売機の下へと手を入れた。十秒ほど手探りをして、それらしい感触を掴む。

「よっしゃ、これならとれる」

 二年生レギュラーは歓喜の独り言を洩らし、手をかき寄せた。すると百円玉だけでなく、一枚の古びた紙のようなものも一緒に出てくるではないか。

「ありゃ? 何だ、これ?」

 紙を硬貨と一緒に拾い上げ、土埃を払うと何気なくひっくり返す。そこで初めて、それが紙ではなく、写真であることがわかった。だいぶ古いものらしく、すっかり変色しているが、それでも仲のよさそうな親子が、桃城に向かって微笑んでくる。

「きっと、誰かが落とした奴が、ここに入り込んじまったんだろうな」

 後で交番にでもとどけるか。桃城はそう結論をだし、とりあえずポケットに丁寧に入れておいた。仮に持ち主が現れても、肝心の写真が皺だらけでは話にならない。とはいえ、飲み物を買っての所へ戻った頃には、写真のことなど綺麗に忘れていたが。

 ひたすら練習に励むうちに、いつしか太陽は中天に昇っていた。どこかで昼食をとるべく、二人のテニス部員がコートを出て歩いていると、前方からひとりの男の子がやってくるのが見えた。

 その子供はきょろきょろと足下を見回し、時折姿勢を低くしたりしている。どうやら何かを探しているようだ。桃城たちを認めると、真っ直ぐに歩み寄ってくる。その顔に、桃城は何故か見覚えがある気がした。

「ねぇ、お兄ちゃんたち、この辺りに『しゃしん』が落ちてなかった?」

 大きな瞳で、物怖じもせずに二人の中学生を見上げてくる。年齢は五、六歳くらいだろうか。少しばかり癖のある黒髪に同色の眼、痩せた手足は妙に青白い。

 は彼と目線をあわせるように、地面に片膝をついた。

「どんな写真かな?」

 男の子の目には、どうやらが優しそうな少年に見えるのだろう、にこにこと笑顔を顔中にあふれさせる。

「えっとね、パパとママ、それとぼくが一緒に写ってるの」

「そっか……ごめんね、僕は見てないなぁ。桃は?」

 色鮮やかな双瞳を受け、桃城は反射的に「俺も」と頷きかけた。が、そこではたと、先ほど拾った写真のことを思い出す。ようやく思い出したといってもよい。どおりで眼前にいる男の子が、初対面のような気がしなかったわけだ。

「見た、見た! っていうか、俺が拾ったんだよ。後で交番にでもとどけようと思って……!!」

「本当!?」

 男の子が両眼を輝かせる。二年生レギュラーがポケットから写真を出してみると、動きまわったせいか、角にぽっきりと折り目がついてしまっていた。

「やべぇ……!!」

 心に冷や汗が噴き出る。だが、いまさら隠せるものでもない。写真をわたして正直に謝れば、男の子は首を横に振ってみせた。折り目など、まるで頓着した様子もない。

「いいよ。別にやぶけちゃったりしたわけじゃないもの。それより、みつけてくれて、ありがとう!」

 男の子は、白い歯がこぼれる、という表現がふさわしい笑顔を浮かべる。それでも、桃城は気がすまなかったのか、きっちりと頭を下げてもう一度謝った。たかが写真、たかが子供相手に、と思われるかもしれないが、この男の子にとって、その写真がどれほど貴重なものかは一目瞭然だ。それに多少でも傷をつけてしまった以上、謝るのは人として当然であった。

 栗色の髪の少年も、親友と一緒になって謝罪の言葉を述べると、気になっていたことを訊いてみる。

「すっかり色が褪せちゃってるけれど、ひょっとして、前から探してたのかな?」

「うん、ずっと前に落としちゃってね、ぼく、ずっとずっと探してたの」

 一瞬、二人の中学生の視線が交錯する。


 何故だろうか――何かが、心にひっかかった。


 だが、それをおくびにも出さず、はにっこりと笑ってみせる。

「そうなんだ。みつかって、よかったね」

「うん!」

 男の子が写真を胸に抱く。と、何かを思いついたように、桃城が身体を屈めた。

「写真に折り目をつけちまったお詫びに、それを入れる写真立てを買ってやるよ」

「しゃしんたて?」

「うん、写真を入れて、飾っておくための入れ物だよ」

 と、これは青緑の双眸を持つ二年生である。

 男の子は少しの間、考え込むように首を傾げた。おそらく「買ってもらう」ということに、子供なりの抵抗を感じているのだろう。だが、二人の少年の顔を交互を見、やがてこっくりと首を縦に振る。

「よし! 決まりだな!」

「うん、さあ、いこうか」

 が腕を伸ばせば、男の子は無邪気にそれを掴んだ。

「……?」

 青緑の瞳に、いぶかしげな光が浮かぶ。

? どうかしたのか?」

 黒髪の友人に横手から顔を覗き込まれ、は我に返ったような顔をする。慌てて首を横に振ってみせた。

「ううん、何でもないよ。いこうか」

「おう」

 短い影をアスファルトに落としながら、三人はゆっくりと歩きだした。




 三人は公園の近くにあった雑貨屋に入り、写真立てが並んでいるコーナーへと足を運んだ。色といい、デザインといい、あらゆる種類のそれが飾られている。棚が少々高いため、男の子は首を垂直にしても満足に見ることができない。

 黒髪の少年が男の子の身体を抱き上げてやる。

「どれがいい?」

「……えーっと……」

 大きな黒い双眸が、棚の上に陳列された商品を舐めるように眺める。「どれがいい」と訊かれても、どんなものがいいのか、よくわからないのだろう。眉根を寄せて考え込んでしまう。

 そのどこか愛らしい様子に、は口の端をほころばせた。

「じゃあ、何色がいい?」

「えっとね、あお!」

 一番好きな色なんだ。男の子は笑顔でそう言った。すると桃城は、青い写真立ての中から、ぱっと目についたそれを手にとる。

「青か。じゃあ、これなんかどうだ?」

「うん、それにする!」

「よし、じゃあ、レジに持っていこうな」

 レジにいき、代金を桃城との二人でだしあう。もっとも、当初桃城は、代金は自分ひとりで払うつもりであった。折り目をつけたのは、自分なのだから当然である。が、そんなことはが認めなかった。自分にも払わせてほしい、と親友に頼み込まれれば、二年生レギュラーは折れるしかない。

 会計をすませ、店を出たところで、買ったばかりの写真立てに男の子の持つ写真をおさめてやる。鮮やかな青色のフレームの中で、セピア色になった写真が浮かび上がるようだ。男の子は感激したように、それを抱きしめた。

「お兄ちゃんたち、ありがとう!」

『どういたしまして』

 二人のテニス部員の声が重なる。と、そこで二年生レギュラーの腹部が、空腹を訴えて盛大に鳴った。桃城の顔が沸騰したかのように赤くなり、は悪いと思いつつも、つい笑ってしまった。男の子の方も、堪えきれなかったように笑いだす。

「……笑うなよ」

 桃城の口調は憮然としている。

「ごめん、ごめん。どこかでお昼にしようか?」

 が素直に謝れば、桃城は早々に気をとりなおした。元々怒っていたというよりも、ただ単に照れていただけなのだ。

「といっても、この時間だと、どこも混んでそうだな」

「そうだね……どうしようか?」

 思案顔になるの袖を、男の子が軽く引いた。

「お兄ちゃんたち、ぼくの家にくれば?」

 思いがけない提案に、二対の双瞳が見かわされる。確かに場所さえ確保できれば、どこかで昼食を買って、そこで食べることができる。彼らの頭には、どこかの店で食べる、という選択肢しかなかっただけに、この子の申し出はありがたい。

 桃城は目線をあわせるために、軽く身体を屈めた。

「いいのか?」

「うん! しゃしんたてのお礼!」

 男の子は右手での袖を、左手で桃城のそれを掴んで放さない。どうやらここで別れてしまうのが寂しいようだ。その気持ちは二人のテニス部員にもよくわかったので、ここは彼の申し出を素直に受けることにした。




 男の子の家は、いくつもの住宅が密集している地帯の、少々奥まった場所にあるという。左右を建物の壁に挟まれた路地を、男の子は軽やかな足どりで進む。

「お兄ちゃんたち、こっちだよ!」

 それは一階建ての、さして大きくもない家であった。だが、まだ幼い子供には、城にも匹敵する大きさであろう。家屋の周りでは雑草が自由を謳歌していたが、人の往来によってひらけた道が、玄関まで続いている。

 男の子は首にさげていた鍵で、玄関の戸を開け放った。光が入り込み、ひっそりと並んだ大人ものの靴が二足、薄闇の中に浮かび上がる。

「お邪魔しまーす!!」

「お邪魔します」

 桃城との声が、ほぼ同時に発せられる。が、屋内からは何の反応も返ってこない。青緑の瞳をした少年の声ならともかく、朗々としてよく響く桃城のそれが、聞こえないはずはないのだが――。

「……? 誰もいないのかな?」

「なあ、お前、お父さんとお母さんは?」

 桃城の問いかけに、男の子は明るく言ってのける。

「パパとママはね、お仕事にいってるの」

 一瞬の沈黙。二人の少年たちは、思わず視線をあわせる。自分たちが悪人ではないことは、自分たち自身が一番よく知っている。この無邪気な幼子も、きっと本能的な部分でそれを察してくれているのだろう。が、他の者は、この子の両親はそう思わないかもしれない。そうなった場合、この子は両親から怒られるのではないだろうか。

 二年生レギュラーは男の子の頭に、ぽん、と手をのせた。

「こら、ダメだろ。お父さんたちがいない時に、知らない人を勝手に家にあげちゃ」

「……でも、お兄ちゃんたち、悪い人に見えないもん……」

 自身の小さな足に視線を落とし、男の子は少しばかり肩を落とした。桃城は特に声を荒げたりはしていないが、雰囲気的に、自分が注意されるようなことをしたのに気づいたのだろう。

「信じてくれて、ありがとう。でも、これからは気をつけてね」

 注意するだけですませては悪いと思い、栗色の髪の少年が男の子の両手をとって笑いかけた。それにこの子だけが悪いわけではない。ちゃんと確認しなかった自分たちも悪かったのだ。

「そうそう。俺なんか、小さい頃、親の友だちだ、っていう奴を家に入れたら、実はそいつは強盗だった、ってこともあったんだからな」

「よく無事だったね……!?」

 そんなことは初耳であった。少々顔色をかえる友人に、桃城は「いまとなっては笑い話」と、何でもなさそうな調子で頷いてみせる。

「ああ、たいしたことねぇ奴だったから、親がとりおさえて交番に突き出してやった。後で本当のこと知って、さすがにひやっとしたぜ。だからな、見知らぬ奴を、気軽に家に入れたらダメだぞ。いいな?」

「うん、気をつける」

「よし、いい子だ」

 小さな頭においていた手を動かし、桃城は少し癖のある黒髪をかき混ぜてやる。男の子は嫌がることなく、ただくすぐったそうに笑った。

 テレビと円形の卓以外、特に家具らしい家具もない居間で、三人はファーストフード店で買った昼食をとる。広々、というよりは、少しばかり殺風景ともいえる空間に、終始笑い声が弾けた。

「あ、ちょっとお水をもらえるかな?」

 と、が立ち上がったのは、ゴミをひとつにまとめた後のことであった。

「うん、いいよ。そっちに台所がある」

「ありがとう」

 礼を言って立ち上がりながら、は親友に小さく目配せをした。無言の言葉を理解した桃城は、「俺も水をもらうぜ」と言って親友に倣った。

「話したいことがある、って感じだったけど……違うか、?」

「ううん……違わないよ」

 台所までくると、青緑の瞳をした少年の顔から、それまで浮かんでいた笑顔が消え、かわりに深い困惑がたたえられた。親友にだけ聴きとれるような、小さな小さな声で疑念を口にする。

「ねぇ、桃、何だか……この家、おかしくない?」

「は? 何が?」

「うん……人の住んでいる気配が、あんまり感じられないんだ。この流し台だって、最近水を使った形跡もないし……」

 白い指先が、流し台の表面を撫でる。指先に濡れた感触はなく、かわりにうっすらとだが、埃が付着している。詳しいことはいえないが、おそらく使用されていなかった期間は二、三日ではないはずだ。

 そういえば、と桃城が思い出したように言う。

「居間のテーブルの上にあったコップ……底から干涸らびてたぜ」

 ひとつ疑問が浮かべば、それは次から次へと生まれてくる。は整った顔をわずかにしかめ、ますます声をひそめた。

「玄関にあった大人ものの靴も、埃をかぶってたよ。新聞や広告も、そこに無造作に放り出されてた……まさかあの子、ずっとここに独りだったんじゃ……」

 蛇口からあふれだした水が、流し台にたまった埃を運び去っていく。

「いくら何でも、そんなわけないだろ、。大体あんなチビっこいのが、どうやって独りで生活していくんだよ?」

「……うん、それもそうだね」

 青緑の瞳が動き、自身の右手を映す。

 ――あの子の手は、確かにあたたかかった……でも――。

?」

「え? あ、ううん、何でもないよ。いこうか」

 軽く手を洗って戻ってみれば、男の子が桃城たちの荷物をしげしげと眺めているところであった。二人の少年が戻ってきたことに気づくと、好奇心に満ちた双眸を向けてくる。

「お兄ちゃんたち、これなぁに?」

「これ」とは、桃城のバッグからこぼれ落ちていた、テニスボールであった。どうやらファスナーがうまく閉まっていなかったらしい。桃城は男の子の傍に腰を下ろし、小さな頭を撫でてやる。

「あぁ、それはな、テニスボールだぜ」

「てにすぼうる?」

「ああ、テニス、見たことないか?」

 ない、と男の子は首を横に振る。すると桃城は得意げに、テニスについて語り出した。それが自分たちにとってどれほど大切で、そしてどれほどおもしろいものかを。男の子は熱心に聴き入り、時折頷いたりする。

「よぉし、熱心に聴いてくれたご褒美だ。特別に、ラケットとボールに触らせてやるよ。結構重いから、しっかり持つんだぞ」

 まるで新しい弟をもったみたい。話の間中、ずっと沈黙していたは、心の片隅でそんなことを思った。黒髪の友人は、元々弟妹がいる上に、面倒見がよい。小さな子の扱いなど、お手のものなのだろう。

 男の子の身体には、さすがに自分たちの使っているラケットは、少々大きい。よろめきながらも両手で抱えるように持って、幼い子供は大きな黒い瞳を輝かせる。

「これで、ボールを打つの?」

「ああ、そうだ。打つのにも、色々とやり方があってな、それによって飛び方や跳ね方もかわるんだぜ。な? おもしろそうだろ?」

「うん! ぼくもやってみたい!」

 楽しそうな笑い声が弾ける中、青緑の双眸を持つ少年は心に二つの感情を抱いていた。ひとつは、いまの親友も抱いているだろう愛しさ、そして、もうひとつは――考えかけたところで、ひとつ頭を振った。いまこの感情は無用だ。この楽しいひと時を、純粋に感じていれば、それでよいのだから。自分のこの感情は、ひとりになったところでゆっくりと消化していけばよい。

 ふと心づいたように、は自分のバッグを開けた。底の方に大事にしまっていた、いまでは宝物となったハーモニカをとりだす。この時間が、よりよいものとなることを願って口をつける。

 大気をゆるやかに舞う音色は、広すぎる室内をそっと包み込んだ。優しく、あたたかく、ただ静かに無色の腕をひろげて、少年たちの心までも抱き込む。桃城たちはどちらからともなく口を閉ざし、その音色に耳を傾けた。一曲終えると、たった二人の聴衆から、大きな拍手がよせられる。その後も、はリクエストを受けて何曲か演奏し、それが終わると庭に出た。

 桃城とは軽く打ち合い、テニスがどんなものか、実際に見せてやった。男の子もやりたがったので、二人でラケットの振り方などを教えたりして……そのまま夕刻まで一緒に遊んだ。

「あ、桃、そろそろ帰らないと」

「もうそんな時間か? はやいな」

 腕時計と外の様子を見やり、と桃城は帰り支度をすることにした。玄関の外まで見送りにきてくれた男の子の顔は、どこまでも名残惜しそうだ。その頭を、桃城は優しく撫でてやる。

「そんな顔すんなって、またくるから」

「本当?」

 上目遣いに持ち上げられた大きな瞳は、心なしか揺れている。

「うん、絶対にくるよ。だから、それまで元気でね」

 桃城との双方から、「絶対にくる」と言われて、男の子は安堵したのだろう。小さな手を、栗色の髪の少年に差し出した。

「またきてね」

「うん、またくるよ」

 はそっと、差し出されてきた手を握り返した。

「ばいばーい!」

 ゆっくりと歩き出した桃城たちに、男の子は手を振る。精一杯背伸びをして、いつまでもいつまでも、二人のテニス部員の姿が、完全に見えなくなるまで、ずっと手を振り続けていた……。





 再び桃城とが、そこへやってきたのは、男の子と別れてからちょうど一週間経った日であった。公園で軽く打ち合ってから、あの子の家へと向かう。今日は何をして過ごそうか。そんなことを話し合いながら、路地へと入る。

 と、少年たちを呼び止める声があった。顧みれば、いかにも通りすがり、といった風情の、杖をついた老婆が立っていた。あまり友好的とは思えない視線で、無遠慮にこちらを見やってくる。

「そっちは空き家しかないけれど、何か用でもあるのかい?」

 用がないのなら、近寄るな。老婆の目はそう語っていた。が、少年たちには、一瞬何を言われたのかさえ、理解できなかった。思わず互いの顔を見あわせ、青緑の瞳をした少年が、礼儀を守って問う。

「空き家? そんなはずありません。小さな男の子と、その家族が住んでるはずです。それとも、引っ越しでもされたのでしょうか?」

「何言ってるんだい。あそこの家のご家族は、もう何年も前に亡くなって、それ以来誰も住んじゃおらんよ」

「え……!?」

 言葉に詰まったにかわり、今度は桃城が食ってかかる。

「そ、そんなはずないっスよ! だって、俺たち、ついこの間……!!」

 その子に出逢って、一緒に写真立てを買って――あれは夢でもなければ、幻でもないはずだ。だが、目の前にいる老婆は、嘘をついているようには見えない。それを見、桃城たちは思い出さずにはいられなかった。


 古びた写真。

 人の住んでいる気配が、ほとんど感じられない家。

 無造作に放り出されていた、新聞や広告。

 埃をかぶった大人ものの靴。

 底から干涸らびていた、二つのコップ。

 長く使われた形跡のない台所。


「まさか、まさか」

 と、嫌な温度の汗が、じわりと心から噴き出てくる。




『うん、ずっと前に落としちゃってね、ぼく、ずっとずっと探してたの』




 ――あの時、何かが心にひっかかった。


 自分たちの半分も生きていそうにない男の子の口から洩れる、『ずっと』という言葉。


 それが、途方もない年月を指しているような、そんな気がしたのだ。



 老婆は語った。数年前まで『その場所』に住んでいた、ある家族のことを。

 住んでいたのは、父と母、そしてひとり息子という、三人家族。それほど裕福ではなかったようだが、家族の仲はよく、幸せそうな生活を送っていたという。だが、ある日、息子が重い病気にかかり、入院を余儀なくされた。両親は愛する息子の入院費と手術代を稼ごうと必死で働いていたが、ある時面会に向かう途中で交通事故に巻き込まれ、還らぬ人となる。まだ幼かった息子に、看護婦や医者は「優しい嘘」を吐いた。

「お父さんとお母さんは、遠い場所にお仕事にいったのよ」

「キミがいい子にしていれば、そのうち帰ってくるよ」

 辛い現実をみせないための「優しい嘘」を、まだ幼い子供は疑いもしなかった。いつか帰ってくる両親を待ち続け……ある朝、ひっそりと亡くなっているのを、看護婦が発見した――。

「まるで眠っているかのような、穏やかな死に顔だったらしいよ。きっと、苦しまずにすんだんだろうね」

 それがせめてもの救いだよ。老婆は皺の刻まれた目元を拭い、涙混じりの声で言った。いま残っている家屋も、来月にはとり壊され、新しい家が建つ予定らしい。全てが忘れられるように……。

 老婆が去った後、二人のテニス部員は、走ってその場所へいった。そこへいけば、あの男の子が、笑顔で自分たちを迎えてくれるのではないか。そんな淡い期待が、胸の底には微かにあったのだ。だが――。

「――嘘だろ……」

 長すぎる沈黙を経て、ようやく桃城はそう呟いた。

 わずか数日の間に、十年にも匹敵する年月が流れたかのようであった。少年たちの眼前にあるのは、古び、ただ解体を待つばかりの家屋。窓ガラスは全て割れ、玄関の扉は朽ち果てはずれかかっている。柱や屋根も半ば崩れ、床は所々抜け落ち、廊下には年月を感じさせる埃があつく積もっている。

『危険! 立ち入り禁止』

 雑草のはびこった草地に突き立った看板は、辛うじてそう読めた。風雨にさらされ、すっかり塗料が落ちているため、注意していなければ、見落としてしまいそうだ。実際、初めて訪れた時は、こんなものは桃城たちの眼には入らなかった。

 桃城とはひとつ頷きかわすと、家の中へと足を踏み入れた。確かに見覚えのある風景――だが、それがとても遠いことのようであった。玄関に放り出されたままの新聞や広告も、居間にある円形の卓の上にあるコップも、数日前に見たはずなのに。

「――桃……」

 古くよどんだ大気を、の細い声が揺らした。桃城はギシギシと軋む床を慎重に歩いて、友人の傍へといく。青緑の瞳は、ただひたすらに一点を見つめていた。その視線を追い、桃城も瞠目する。

、これって……!?」

「……うん、僕たちが、買ってあげたもの……だよね」

 過去の家にぽつんと残された、真新しい写真立て。蜘蛛の巣が張った棚の上に、場違いなほど鮮やかな青色を浮かび上がらせて……それは、その中に在る三人の家族は、少年たちに笑いかけてくる。

「……俺たちがまたくるの、待っててくれたんだな……」

 黒髪の少年の言葉は、ほとんど独り言のようであった。


 どれだけの時を、たったひとりで過ごしたのだろう。

 いつか帰ってくると信じて待った両親は、もうこの世のどこにもいなくて。

 寂しくて、哀しくて。

 だから、すがりついたのだろう。

 いつかの日になくした、一枚の写真に――記憶の中のぬくもりに……。


 と、がハーモニカを唇にあてた。メロディーがゆっくりと大気を揺らし、古びた家屋の中に染み入っていく。何曲か演奏した中で、男の子が一番気に入っていた曲だった。時々小刻みに震えるのは、奏者の気持ちを反映しているからだろうか。美しくも、もの悲しい旋律を聴きながら、いつしか桃城は泣いていた。

 ――何がそうさせるのか。何を想ってのことか。

 わずか数年しか生きられなかった、小さな子供を想ってのことか。それとも、誰にも知られず最期を迎え、そのまま彷徨っていた幼い魂へのあわれみなのか。答えは桃城自身にもわからなかったが、それでも、彼は涙をとめることができなかった。

 気がつけば、ハーモニカの演奏は終わり、もまた泣いていた。二年生レギュラーが肩を抱いてやれば、消え入りそうな声でささやく。

「あの日の家は……たぶん、あの子がここに還ってきた時の、ご両親が亡くなった後のものだったんだろうね……」

「だろうな……」

 返事は最低限なものですませる。それ以上口にすれば、桃城は声を放って泣き出してしまいそうだった。


 魂だけの存在になって、ようやく戻ってみた我が家には、両親の姿はない。

 彼らが交通事故に巻き込まれた、その日のままに残った家。



『パパとママはね、お仕事にいってるの』


 一体どんな気持ちで、そう言ったのだろうか。


 片手にハーモニカを握りしめたまま、は語を続ける。

「……テニスに……興味もってくれてたね……」

「……ああ」

 しげしげとテニスボールを眺め、持たせてもらったラケットに瞳を輝かせて。ぼくもやってみたい、と笑っていた。あの青白い手足を考えれば、きっと外で思いきり遊ぶ、あるいはスポーツの類など、やったことがなかったのかもしれない。

「――あの子の手、あたたかかった……」

 ――覚えている。またきてね、と差し出された手は、小さかったが、確かなぬくもりを宿していたことを。それを握り返した自身の手を胸に抱き、青緑の双眸を持つ少年は息を大きく揺らした。半ば押しつけるように、桃城の肩に顔を埋める。

 親友のやわらかな髪に手をそえつつ、桃城は震える声でようやく応えた。

「……バカ……余計に涙がとまらなくなるじゃねぇか……」

「…………ごめん。でも――」

「言うな」

 二年生レギュラーは親友の言葉を遮るように、その肩を抱く腕に力を込めた。友人が何を言おうとしたのか、何が言いたかったのか、痛いほどよくわかったから……。



 ――もう少しだけ、はやく逢えていたら――。



 それは偽りのない、けれども、口にしても詮のない願いだった。





 近所の人に墓の所在を訊いて、桃城とは写真立てを持ってそこを尋ねた。当然かもしれないが、件の家族とは何の関係もなさそうな少年たちに、当初寺の住職はいぶかしげな顔をしたものである。が、真新しい写真立てにおさまっている、古ぼけた写真を見た途端、何かを察したように頷き、二人を墓まで案内してくれた。

 こうして、時の流れを彷徨っていた写真は、少年たちに見守られながら、在るべき場所におさめられることになったのである。一個のテニスボールとともに。

 帰る途中、何となく足を運んだのは、男の子と初めて出逢った公園だった。テニスコートの近くにあるベンチに腰を下ろし、晴れた空を仰ぎ見る。あの子が、一番好きな色だと言っていた、「あお」の空がひろがっている。

「――あの子……幸せだったのかな……?」

 流れる白雲を瞳に映し、がぽつりと呟いた。自分たちの半分の年月も生きられず、最期の時を誰に看取られることもなく、永遠と無限の時を、たったひとりぼっちで彷徨っていた、幼い魂――。


 ――キミは、幸せだった?


 だが、一瞬の躊躇いもなく、二年生レギュラーは頷いてみせた。

「幸せだったに決まってるだろ。だって――」

 いまでも思い出せる、耳の奥で弾ける音に、偽りの色はない。

「あいつ、笑ってた――」

「――うん」




 その日の空は、かなしいほど真っ青だった。



『お兄ちゃんたち! こっちだよ!』



 ……あの無邪気な声と笑顔を、僕らはきっと、忘れない。






                            ――Fin――




 <あとがき>

・今回は、水帆ちゃんと一緒に考えた、お題四八「写真」――二年八組の二人が、ある日体験した、不思議な、それでいて少し悲しいお話でした。二周年記念に悲しいものを書くな、という感じですが; ちなみにタイトルの「永遠」は、「とわ」と呼んで下さい。
 くんは多感で、結構涙もろい子です。自分のこと、他のこと、悲しいこと、嬉しいこと、ちょっとしたことですぐに泣きます。つまり、それだけ心が敏感で、優しい子なんですね。くんが泣くお話は、これまでにもいくつか書いてきましたが、たまには親友と泣こうかな、とか思っていたら、上記のようなお話ができてしまいました。桃城くんと一緒に泣いたことは、これが初めてというわけではありませんが、きっと思い出のひとつになったと思います。あの男の子のことも含めて――。
 悲しい結末だったけれど……ただの偶然かもしれないけれど……出逢えたことはきっと不幸ではなかった、と思います。「いい思い出」というものは、必ずしも嬉しいものばかりではないと思いますから。
 遙か創作の時にも書きましたが、時空界の方も二周年を迎えました。サイトにきて下さった皆様、創作を読んで下さった皆様、ありがとうございます。これからも時空界の方をよろしくお願いします。
 ここまで読んで下さって、ありがとうございました。



                                               2004.10.9    風見野 里久


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