曇り空の向こうには……
空には色の濃い雲が多く、太陽は滅多に顔を覗かせない。どんよりとした、重い曇り空である。雨の降る気配こそないものの、何やら頭上にのしかかってくるように感じられる。
土御門にある屋敷の一室で、龍神の神子である少女は、何度目かのため息をついていた。まるで本日の曇天に同調したかのような表情である。龍神の神子――あかねの腕の中にいる三毛猫が、小首を傾げて少女を見上げる。
「いのり……どこにいっちゃったんだろうね……」
三毛猫の背を優しく撫でてやり、あかねはまたひとつ歎息した。
現在この館には、とある事情により、二匹の子猫が棲んでいる。その内の一匹が、いまあかねに抱かれている三毛猫の「テンマ」だ。もう一匹は、茶トラの「いのり」である。そして、この「いのり」こそが、少女の憂い顔の原因であった。
「邪魔するぜ、あかね」
という声とともに、天真が部屋に入ってくる。彼の後に続いて、頼久、詩紋、そしてイノリも姿を現す。「いのり」の姿を求めて、いままで屋敷の中を歩きまわっていた四人だ。それまでどこか閑散としていた室内が、たちまちにぎやかなものとなる。
「ダメだったよ、あかねちゃん」
「屋敷の中に、いのりの姿はなかったぜ」
地の理に属する朱雀と青龍の言葉に、あかねは少なからず肩を落とした。
いのりがいなくなってから、すでに三日ほどたっている。子猫たちを大事にしていたあかねとしては、心配でたまらない。できればいますぐ自分も捜しにいきたいのだが、あいにくと今日は物忌みであるため、それもできない。心には、不安と不満ばかりが渦巻く。が、それでも、龍神の神子である少女は、捜索隊の者たちに笑顔を向けたものだ。
「ありがとう、みんな。ご苦労様」
四人の八葉は、無言のうちに視線を交錯させる。あかねが無理に笑っているのを、見抜いているのだ。何とか元気づけてやりたいが、どうしたらいいのだろうか。
「こんなことなら、『いのり』なんて名前、つけるんじゃなかったよな。名前提供者によく似て、落ち着きがねぇというか、何というか……」
場の雰囲気を和ませようとしているのか、天真がわざと明るい声を発した。それに反応したのは、勿論鍛冶師見習の少年である。
「天真に言われたくねぇよ! 大体オレの名前をつけろ、って、言ったのは、天真だろうがっ!!」
「あれ? そうだっけ?」
「とぼけんな!」
二人の少年のやりとりを見、少女の口元がわずかに緩む。彼らが自分を元気づけようとしてくれていることが、よくわかる。こんな時、彼らに出逢えてよかった、とあかねは心から思う。
と、イノリの抗議を聞き流して、天真は立ち上がった。
「俺、屋敷の外を捜してくるわ」
すると、それまでずっと沈黙していた頼久が口を開く。
「あてはあるのか?」
「ない。でも、そんなに遠くはいってないと思う」
あくまで俺の勘だけどな。そう言って、地の青龍はさっさと部屋を出ていった。背後で鍛冶師見習の少年が何か叫んでいたようだが、彼の耳にはほとんど聞こえていなかった。
天真の足が洛東に向けられたのは、気まぐれでしかなかった。ただ何となく、靴先が向いたというだけだ。が、ひょっとしたら、見えない何者かの手が、彼を導いたのかもしれない。
前方にある茂みが揺れたかと思うと、そこから何かが飛び出してくる。それは茶トラの子猫であった。赤い組紐をつけているのを、地の青龍は見逃さない。首輪がわりに、と龍神の神子である少女がつけたものだ。ちなみに、テンマの方は青い組紐を首につけている。
「いのり!?」
茶トラの子猫は、天真に気づくと駆け寄ってくる。地の青龍は身体を屈め、両手でいのりをすくい上げた。自身の目の高さまで持ち上げる。
「お前、三日間もどこにいってたんだよ? あかねが心配するだろ」
口ではいかにも「お説教」といった風情だが、彼の眼差しも態度もやわらかい。それがわかるのか、いのりは甘えるように一声鳴いた。小さな舌で少年の頬を舐める。
「わっ、こ、こら、やめろって。くすぐったいだろ」
と、またも茂みが揺れた。今度は先ほどよりも荒っぽい。天真は反射的にその場を飛び退いていた。一転して起きあがると、腕の中で茶トラの子猫が全身の毛を逆立て、威嚇の声を張り上げる。
茂みから現れたのは、いのりよりも遥かに巨大な生物であった。一見すると猫のようであったが、果たしてそれを猫と呼んでいいものだろうか。肌を刺す邪気と瘴気。耳まで裂けた口から覗く、鋭く尖った歯列。天真には、それが何なのかわかった。
「……やっぱり、お前は『いのり』だな。面倒なものを、連れてきてくれたもんだ」
天真はゆっくりとした動作で子猫を地におろし、口元を歪めた。いのりは人の姿をした友人を護るつもりなのだろう、彼の足下で身構える。
巨大な猫の姿をした怨霊が、殺気混じりの唸り声を上げた。反射的にひとりの少年と、一匹の子猫はその場を飛び退く。一瞬まで彼らのいた大地が弾け、土煙が舞い上がる。地面に穿たれた穴が、攻撃の威力を物語っていた。
「これでも――くらえっ!!」
言葉の後半とともに、地の青龍の手が閃く。放たれた青き雷が、怨霊の身体に向けて牙を剥いた。が、怪猫はまるで本物の猫のように身軽に動き、雷龍の爪と牙のことごとくをかわしてみせる。
「はやいっ!?」
天真の口から、驚愕の声が洩れた。と、怨霊は彼といのりの周囲を、飛び回り始める。地の青龍の眼では、黒い影をわずかに捉えることしかできない。
「どっちだ……!? どこからきやがる……!!」
前方に向けて跳躍の姿勢をとったのは、ほとんど無意識の行為であった。足が地を蹴りつけたのとほぼ同時に、耳元を風切り音がかすめる。
「うあっ!?」
肩の辺りに、熱い痛みが弾ける。身体をよろめかせた天真の耳に、二種類の鳴声が聞こえた。ひとつは怨霊の、もうひとつはいのりのものである。地の青龍は反動で地面に倒れ込みながらも、すぐさま一転して跳ね起きた。
「いのりっ!?」
天真の双瞳に映ったのは、怪猫の耳に食らいつく子猫の姿であった。怨霊は苦悶の声を上げて、身体をよじり、いのりを振り飛ばそうとする。が、いのりは小さな牙を怨霊の皮膚に突き立てたまま、死んでも放すものか、とばかりにしがみつく。
地の青龍は思わず叫んでいた。
「馬鹿! 無茶するな!!」
と、ついに子猫の身体が、宙に放り出され、地面を転がる。
「いのりーっ!?」
駆けより、抱き起こせば、子猫は小さく鳴いてみせた。怪我はたいしたことないようだが、受けた衝撃は大きかったようだ。自力で立つこともできそうにない。天真は安堵すると同時に、怒りが湧き上がってくるのを感じた。ゆっくりと双眸を怪猫にめぐらせる。
「――赦さねぇぞ……!! 絶対に!!」
両の手に帯電する青き光を集わせ、天真は怨霊に向けて突進した。
地の青龍が藤姫の館に戻ってきたのは、周辺の薄暗さがより増した頃であった。地上からは見えないが、おそらく陽はだいぶ西に傾いていることだろう。
天真は普段肩脱ぎにしている衣を着込んだ状態で、屋敷の門をくぐる。
「あっ、天真先輩!」
「天真、お前一体どこまでいってたんだよ!」
庭の再捜索をしていたらしい天地の朱雀が、天真の姿を認めてやってくる。天真は曖昧に笑うと、自身の懐に視線を落とした。
「そんなことより、ほら、いのりを連れて帰ってきたぜ」
その言葉に応えるように、茶トラの子猫がひょっこりと顔を覗かせる。
「本当だ! お帰り、いのり!」
「おーい、あかね! 天真がみつけてきてくれたぞ!!」
詩紋とイノリが口々に声を上げながら、屋敷の方へと駆け込んでいく。その声を聞きつけたのか、やはり庭の再捜索をしていた頼久が、すきのない足どりで歩み寄ってきた。天真の方を見て、わずかに眉をひそめる。
「天真……お前――」
「いのりがみつかったって、本当!?」
武士の青年の言葉を遮って、屋敷からあかねが飛び出してくる。よほど急いできたのか、素足のままだ。それを見、地の青龍は苦笑にも似た笑みをたたえる。
「おいおい、あかね、お前、今日は物忌みだろう? それから、せめて靴くらい履いてこいよ」
もう夕刻であるから物忌みの方は大丈夫だろうが、まだ陽が高かったらどうなっていたことやら。天真が内心で軽くため息をついていれば、あかねは自身の足を見下ろし、頬を上気させていた。
「あ!? いけない、忘れてた……!」
そこまでで、もっと大事なことがあるのを思い出したのだろう。すぐさま我に返り、天真に抱かれている子猫を受けとった。
「いのり! いのり、お帰りなさい! みんな心配したんだからね……!」
龍神の神子である少女は、視線を天真へと移す。
「天真くん! 本当にありがとう!」
「たいしたことじゃないさ。ただの偶然だし」
「それでも、ありがとう」
心から嬉しそうに笑うあかねの顔に、天真は若々しい顔を上気させた。自身の顔を隠すように髪をかき上げ、「あ、ああ」と曖昧に応える。
「あかねちゃん!」
「お前、靴ぐらい履いてけよ!」
詩紋の横で鍛冶師見習の少年が、あかねの靴を掲げてみせる。
「詩紋くんにイノリくん、頼久さんも、みんなありがとう!」
天地の朱雀を加えて、一気ににぎやかになったその場から、地の青龍はそっと離れた。武士団の棟へと靴先を向ける。その歩調は、わずかだが乱れている。それを見逃すような、天の青龍ではなかった。あかねの方を一瞥し、天真の後を追う。
「天真!」
頼久は腕を伸ばし、彼の肩を掴んだ。さしたる力も込めていないというのに、天真の顔が苦痛に歪む。
「いっつ……!?」
「やはり怪我をしているのだな」
武士の青年の声には、確信にも似た響きがある。肩から手を放しながら、天真の顔を見据えた。ごまかしや嘘はつうじそうもない、どこまでも真っ直ぐな眼差しだ。たまらず瞳をそらし、天真は唇を自嘲気味に歪めた。
「……お前に意地はっても、しょうがないか。ああ、そうだ。いのりをみつけた時にちょっとな、怨霊と戦って――」
いのりと出会った時のことを簡単に語る。怨霊は倒した。が、自分も無傷ではすまなかった。それだけのことだ、と。
頼久の顔に複雑そうな色が浮かぶ。
「お前なら、逃げることぐらい、造作もなかったはずだぞ」
「買いかぶるなよ。それに、ちょっと頭にきたからな」
たかが猫なのに、と思われるかもしれないが、いのりが傷つけられた時、天真は心が冷えた。「いのり」という名前のせいかもしれないが、まるで仲間を傷つけられたような、そんな気分がしたのである。
と、地の青龍は表情を改めた。
「――っと、あかねには、言うなよ。黙っていることがいいとは思わないが、いまは――素直に、喜ばせてやりたい」
いのりを捜している時に、天真が怪我をした。そんなことを聴けば、心優しい少女はきっと自分を責めるだろう。自分が捜しにいっていれば、と。今日が物忌みであったことなど、彼女にとっては理由にはならないのだから。
滅多なことでは表情を崩さない青年の顔に、微笑の欠片がこぼれる。
「――わかった。だが、手当は受けてもらうぞ。それが条件だ」
「はいはい、わかりました。お前の手当は荒っぽいから、苦手なんだけどなぁ」
天真はぶっきらぼうな口調で言った。心なしか照れているようだ。それがわかっている頼久は、珍しくいたずらめかした調子で言う。
「痛いのなら、泣いてもいいが?」
「ばっ、馬鹿! 誰が泣くか!?」
「冗談だ。いくぞ」
「おい、こら! 待て、頼久!」
若々しい顔を真っ赤にして、抗議してくる友人の前を歩きながら、頼久は穏やかな微笑を口元にたたえていた。天真は、龍神の神子である少女は優しいから、と言った。しかし、優しいのは彼も同じだ。そうでなければ、こんな配慮はできやしない。
――将来はきっと強さと優しさを兼ね備えた、よい男になるのだろうな。
そんなことを思い、武士の青年は別種の笑みをこぼす。まるで兄のような考え方をしている自分が、少々おかしかったのである。そして、いまはいない、自身の兄に想いをはせる。
「兄上も、こんな気持ちだったのでしょうか……?」
ふと仰いだ空からは、一筋の光がこぼれだしていた。
――Fin――
<あとがき>
・ものすごく久々に書きました、遙か1創作です; 本当に久しぶりなので、みんなの口調とかがかなり心配です。多少変なところもあるかもしれませんが、大目に見て下さると嬉しいです。何だか最近、こんなことばかり言っている気もしますけれども(^^;)
時空界が二周年迎える日は、ちょうど遙か1のアニメ放映が始まる日、ということで、水帆ちゃんと一緒に「遙か1で何か書きたいねぇ」と話したのが、ついこの間のこと。そこで内容は全く二周年とは関係ありませんが、ひとつ思いついていた話をかたちにすることにしました。やはり久々の登場、テンマ&いのりですv この子たちに関するエピソードは、あと二つか三つほどあるので、できるだけはやく消化できるように頑張りますv
何はともあれ、時空界の方も二周年を迎えました。これも、このサイトにきて下さる皆様のおかげです、ありがとうございます。これからも時空界をよろしくお願いします。
ここまで読んで下さって、ありがとうございました。
2004.9.30 風見野 里久
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