――――涼やかな笛の音が聴こえる。
穏やかな微風のように、緩やかに流れゆく川のように。
笛を奏でるあなた自身のように。
とても優しい音色。
『立派な兄に比べ、私などものの数にも及ばぬ身――』
『兄のようにしっかりとした人間になりたい…。叶うのなら、この情けない自分を捨て去ってしまいたい――私は変わりたいんです』
――そうだね、でも……ねぇ、永泉さん。
自分を捨てることはないんだよ。
あなたは、あなた。
お兄さんは、お兄さんなんだから。
あなたは優しすぎるだけなんだよ。
だからもう少し――――。
「――……あれ……?」
綺麗な笛の音と楝色の瞳の繊細な少年は、いつのまにか、小鳥の囀りに遮られ、眩しい朝の陽射しに消えていた。
「永泉さんの夢見ちゃった……。永泉さん、元気になってくれたかなぁ」
そう呟いて微かに溜め息をつき、は着替えを始めた。
天の玄武・永泉は今上帝を兄に持つ、今は出家した法親王。
争いを好まない彼は親王時代、兄と自分のどちらを東宮にするかという貴族たちの間に起こった争いに耐えられなかった。
『私ごとき、つまらぬ身は兄上のような立派な方と争うよりも…世を捨て、仏の清らかな道を歩く方がいいと思ったのです。人を傷つけるのは嫌だった――』
――それが、彼が出家した理由である。
その話を聞いた時に、は彼の言いたい事、気持ちは解るような気がした。
けれど――。
『永泉さん、あなたの気持ちは解る気がするけど…でも、お兄さんをその争いの中に置いてきてしまったの? それは、あなただけ逃げてしまったって事じゃないですか?』
のその言葉に、永泉は――静かに頷いた。
それを機に永泉は少しずつだが前へ進もうと、強くなりたいと思い始めたようだ。
この前もそう言ってくれたのだが…。
「うーん……」
着替えを終えたは、ひとり部屋の中で永泉のことを考え込む。
すると部屋の外からぱたぱたと小さいが慌てたような足音が聴こえてきた。
「神子様、おはようございます」
「おはよう、藤姫。どうしたの? そんなに慌てて…何かあったの?」
普段ならしずしずと慎ましやかにやって来る藤姫には不思議そうに尋ねた。
「はい、それが……永泉様が昨日の晩からお屋敷に戻られてないそうなのです。神子様、永泉様の行き先にお心当たりはございませんか?」
「えっ、永泉さんが? 屋敷に帰ってないって……」
その時、は今朝、笛の音が聴こえたような気がしたのを思い出す。
『ここは私にとって大切な場所なんです――』
そして同時に、永泉の嬉しそうな懐かしそうな表情と言葉をも思い出した。
「……音羽の滝かもしれない。私、ちょっと捜しに行ってくるね」
明日は最後の四神を解放する大切な日。
だからこそは永泉を捜しに行く決意をしたのだ。
「え? 神子様、おひとりでですか?」
「うん、大丈夫だから!」
心配そうな藤姫を振りきって、は音羽の滝へと向かった。
――音羽の滝。
焼けるような陽射しの夏の日でも、ここはいつも涼しげな雰囲気に包まれている。
きっと滝が流れていた頃は、もっと涼しかったのだろう。
「永泉さん……いるかな…?」
この滝は京に異変が起こる直前に枯れてしまったのだと、前に彼が教えてくれた。
そして『兄との思い出の場所』であるということも――。
だからは何となく彼がここに居るような気がして足を運んだのだ。
「うーんと……」
きょろきょろと辺りを見回す。
と、その刻。
どこからともなく、澄んだ笛の音が響き渡る――。
「あっ、笛の音…! 永泉さん…!?」
その音色で永泉だと確信したは、耳に届く調べを辿って走り出す。
「あ…!」
そして――滝のほとりで、目を閉じ静かに笛を奏でる永泉を見つけた。
「……神子? 神子ではありませんか…どうしてここに?」
の姿に気づいた永泉は少し驚いたような表情をして、笛からそっと唇を離して尋ねる。
「どうしてって…その、何となく永泉さんがここに居るような気がしたんです」
がそう答えると永泉は柔らかく微笑む。
「そうですか…。一瞬、あなたの姿が幻ではないかと驚きました。あなたのことを考えて笛を奏でて
いたので…」
「えっ…?」
微笑んだまま少し俯いて紡がれた言葉に、は小さく驚き、同時に鼓動が高鳴る。
「あっ、あの、永泉さん…! 昨夜からここに居たんですか?」
ハッと気がついては微かに頬を桜色に染めながら問うた。
永泉は、それに「え?」と顔を上げる。
「さっき藤姫に聞いたんです。永泉さんが昨日の夜から帰ってこないって、心配している人がいますよ」
ようやく鼓動を落ち着かせて、同時に彼を心配する気持ちを逸らせないように言った。
きっと悩んでいるのだろうから――。
「ああ…それで、捜しに来て下さったのですね。ご心配をおかけして、すみません」
永泉は少し顔を翳らせてに謝ると、かつて流れがあった滝へと楝のような青紫色の瞳を
向ける。
「……もしかしたら、二度とここに来られなくなるかもしれないと思いまして…。けれど明日、最後の四神の解放に成功すれば雨が降ってこの滝がよみがえるだろうかと…。それから――兄との思い出…。色々なことを思い、考え見つめていたら、いつのまにか夜が明けていたんです」
「そう、だったんですか…。ここは、永泉さんとお兄さんの思い出の場所ですもんね」
「ええ…」
そう答えた永泉は微かに微笑んだ気がした。
けれどまるで見間違いであったかのように、次の瞬間には微笑みは消え、悲しげに翳ってしまう。
「私は私で、兄は兄だと……あなたはおっしゃいました。ですが、やはり私は過去を捨てきることが出来ません…。ここに、兄と最後に来た日のような――幼かったあの頃のような気持ちでいれば滝はよみがえったかもしれない…けれど、私はもうそんな心を持ってはいません…! 俗世を捨てて、仏に仕える身でありながら今更このような気持ちを抱いた私には……神子、あなたのような清らかな心は無いのです」
涙が零れるくらい、悲痛に表情を歪める永泉。
「永泉さん…! 違うよ、そんなことないよ…!」
そんな永泉の腕の薄緑色の衣を、はきゅっと掴む。
「私が言いたかったのは永泉さんとお兄さんが『関係ない』って事じゃなくて、永泉さんはもっと自分の好きなようにしたらいいんじゃないかなって事なんです。過去も自分も捨てることなんてない……今の永泉さんが、まず自分を信じてみる事から始めたらどうかなって思ったんです。だって永泉さん、自分を信じていないだけだもの」
「神子……」
そっと顔を上げ自分を見つめてくる永泉に、はしっかりと微笑む。
「永泉さんは、とっても優しい清らかな心を持ってる人です。今まで何度も私を助けてくれました。
怨霊との戦いでもそうだし、気分転換にも誘ってくれたり……私、本当に嬉しくて感謝してるんです。そんな優しい永泉さんが好きなんです」
「え…?」
今まで暗く翳っていた永泉の顔が一瞬にして驚きに変わる。
しかもその頬には赤みが射していて。
「あっ…あの、えっと、だから…っ!」
永泉のその照れたような表情で、気持ちの有りのままを紡いでしまったことに気づいたは、彼の腕を掴んでいた両手をパッと放し、頬を紅く染めて口元を押さえる。
「だから…もっと自分に自信を持って、自分を信じてみて下さい…! そうすれば、滝をよみがえらせる事も出来るかもしれないし…!」
内心「どうしよぉ〜!」と思いながら、は必死に両手で紅い頬を覆った。
「神子……いえ、殿。ありがとうございます」
から贈られた言葉、想い。
それによって自分の中にあふれ出す、想い。
そして、目の前で頬を紅く染め上げて慌てている可愛らしい少女――の姿。
永泉はそのすべてに愛しさを感じて、薄らと紅い頬をして微笑み、少女の名を呼んだ。
「そうですね…。私は今まで自分を信じようとはしなかった。ですがあなたのお言葉で、信じてみたいという、勇気が出てきました。そして自分の気持ちに正直になりたいと、そう思います」
「永泉さん…」
永泉の芯の強さを思わせる笑顔を見ても嬉しそうに表情を輝かせる。
そうして、ふたりは微笑みを交わした――――その瞬間。
涼やかな音を立てて、清らかな滝が流れ出す――!
「あっ…!?」
ふたりは同時に気づき、同時に声を出した。
「滝に流れが戻るなんて……何故、このような…?」
仏に仕える身でありながら、に対しての想いを抱えた自分は天罰を受けるべきなのに――と、そう思う永泉には喜びよりも先に驚きの感情が沸き上がった。
「きっと、永泉さんの気持ちが滝に伝わったんですよ! よかったですね」
半ば放心したような永泉に、にっこりと笑いかける。
「殿…」
無垢な笑顔を向けるに、永泉の表情がようやく和らいでいく。
「ありがとうございます……きっと、あなたのその優しさが滝に流れをよみがえらせてくれたので
しょう…。――殿」
穏やかな微笑をたたえてそう言うと、永泉は真っ直ぐを見つめる。
は、「はい?」と少し首を傾げて永泉の言葉を待つ。
「……殿。私は、あなたが好きです。あなたをお守り出来る八葉であること――本当に幸せだと思います」
「え…永泉さん…!?」
再び頬を朱に染めるに、永泉は一度瞳を閉じて――。
「明日、もし私を連れていって下さるのでしたら…私は、あなたのために全力で戦います。もう…逃げたりはしません」
揺るぎなく強い決意を映した綺麗な楝色の双眸が見開かれた。
「永泉さん…! はいっ、明日は一緒に頑張りましょうね!」
彼の決意と言葉が心底嬉しくて、は瞳が潤むのを感じながら笑顔で応えた。
「殿…」
名前を呼ばれたと思った次の瞬間――は永泉の腕の中に居た。
「えっ…あ、あの…永泉さん…?」
儚げで繊細な風貌の永泉なのに、彼の両腕にはすっぽりとおさまってしまう。
と、永泉の胸に軽くもたれかかった刻。
――お香の匂いがする……。
ふわっと抹香の香りを感じて、の鼓動を更にドキドキと高鳴らせた。
永泉はそっと身を寄せるを優しく包み込み…。
「私は、もう自分の想いを止められません。あなたがずっと私のそばに居てくれたら……いえ、私があなたのそばに居たい――大空を自由に舞う、真っ白な比翼の鳥のように――あなたと、一緒に
居たい……」
「…永泉…さん…!」
優しい涼やかな声が心地よく響いて。
心がいっぱいになって、緑色の瞳から一滴の涙がの頬を流れた。
――身を寄せ合うふたりの後ろに、滝が流れている。
降り注ぐ水。
涼しげに飛び散る水飛沫。
音が――流れる。
それは、ふたりの想いのように遠く高く。
きっと空の彼方まで。
――――永遠に、響き渡る――――。
end.
《あとがき》
永泉さん創作第一作目です。通常四段階のはずが急展開二段階もごっちゃまぜ;
だって『大空を自由に舞う真っ白な比翼の鳥のように』って言葉がすごく好きなんです!
「何て綺麗な言葉を言う人なの〜v」と、とても感動しました(〃▽〃)
Σあ、ところでネタバレバレですみません; どうしても「お兄さんと関係ない」と
いうのを「永泉さんは永泉さん、お兄さんはお兄さん」って言いたかったんです。
だって「関係ない」なんて私には絶対言えないです…; まぁそれはさて置き。
このお話を書いてて、私はやっぱり永泉さん好きだなぁ〜vと再確認しましたvv
優しくて雅で、水属性だし(←これですでにポイント高すぎ・笑)
ちょぉっと後ろ向きだけど(笑)、総兄がこだわられる通り(笑)、永泉さんって本当は強い人だと思います!
ただ優しすぎて自分を信じてなかっただけですよね。
ちなみにこのお話は『色彩の雫』と『白・曼珠沙華』をBGMに書きましたv
どちらもすっごくお気に入りの歌ですv 総兄の歌い方素敵すぎですよ〜vv
written by 羽柴水帆
