――――琥珀と翡翠の瞳が悲しげに翳る。
『神子と同等の、人になりたいと……』
――そして鶯色の髪を靡かせる風と共に消えていく、声、姿――。
「――…泰明さん!」
空は蒼い朝未き、はその名を叫んで目を覚ます。
「……夢…?」
涙の跡が痛々しく残っている顔で、はぽつりと呟いた。
寝ても覚めてもふと気を抜けば涙が零れてくる。
それは、三日前にの前から姿を消した地の玄武こと安倍泰明を想うがゆえのことだった。
「…私のせいだ…! 私が泰明さんが悩んでることに、気づいてあげられなかったから…泰明さんがどんな思いを抱えているか、気づかなかったから…!」
人ではない――そう告げられたのは少し前。
八葉を、特に自分を必要以上に道具扱いするのはそういうことかと思っただが、そんなことは関係なしに、今まで通り泰明に接していた。
しかしそれが返って泰明に『人になりたい』という思いを生じさせ、悩ませてしまったのである。
は、それが悪いことだとは思っていない。
けれど――それに気づいてあげられなかったことに、深く後悔していた。
「ごめんね……ごめんね…泰明さん……」
再び布団に横たわりながら、は涙を零す。
そのうちに、の意識は薄らいでいくのだった――。
『――……神子………神子……』
(…だれ…?)
自分を呼ぶ声に、浅い眠りから目覚めたは、重い瞼をゆっくりと開けて起きあがり振り返った。
するとそこには――。
「……泰明…さん……?」
いつもの無表情をしている泰明の姿が、あった。
悲しみに疲れ、輝きを失っていたの瞳に再び光が宿る。
「泰明さん……帰ってきてくれたんですね…!」
そう言って伸ばしたの手は、しかし宙を舞ってしまう。
「え…」
よくよく見たらそこに本人の実体は無く、それはまるで幻のようなものだった。
『神子……双々丘に来てほしい』
そう、泰明の幻は言葉を紡ぐ。
「双々丘…?」
『大切なものを得るために……神子に、来てほしい』
「は、はい! わかりました、すぐに行きます。だから…!」
――必ず待っていて下さい――!
それをが言う前に、泰明の幻は陽炎のように揺らいで消えた。
「――……あ…!?」
が気づくと、完全に夜が明けていた。
暖かな陽射しと共に小鳥の囀りが舞い込んでくる。
「今のは…夢…?」
部屋の中を見回すと、泰明の幻は勿論、何もなかったかのように静まっている。
「……ううん、確かに泰明さんの声だった…行かなくちゃ…!」
凛、と緑色の双眸を見開くと、は紫苑色の水干に着替えて泰明との約束の場所――双々丘へ出かけた。
爽やかにそよぐ朝の風に、樹々が嬉しそうに枝葉を掠める。
差し込む朝陽に葉の朝露が小さくも眩しく光る。
――そんな自然に囲まれた双々丘に、桃色の髪の少女がおとずれた。
「……いない…泰明さん…。あれって…やっぱり夢だったのかな…」
必死に辺りを捜したが見つからない人を思って、は哀しげに表情を翳らせた。
――その刻。
「…神子…?」
今、誰よりも一番会いたい人の声が。
誰よりも一番聞きたい声が、を呼んだ。
は大きく目を見開いたあと、しばらくしてから恐る恐る、ゆっくりと振り向く。
すると振り向いたその先には、同じく驚いたように左右の琥珀と翡翠の瞳を見開かせてを見つめる鶯色の髪の青年――泰明が居た。
「泰…明…さん……?」
そう呟いたの瞳からはもうすでに涙があふれ出ている。
「神子……何故ここに…?」
心底不思議そうに尋ねてきた泰明に、は何とか涙を拭いながら答える。
「な、何故って……泰明さんに、ここに来いって言われたから…」
「そんな筈はない。私は何もしていないのだから」
「え……? だって今朝、確かに泰明さんの幻みたいなのが…」
のその答えで、泰明は彼女の周りの『名残り』に気がついた。
「……お師匠だ…。お師匠が私の姿をさせた式神を、お前の元に遣わせたのだろう」
「…あの泰明さんが、式神? じゃぁ…泰明さん本人じゃなかったんですか…?」
「ああ。私はお前を呼んだりなどしていない」
「…っ!」
この期に及んでの辛辣な言葉に、は確かに傷ついた表情をして俯いた。
そんなを泰明はいつもの表情で黙って見つめる。
それからしばらく、どちらとも言葉を発しないまま、風の音だけが吹き抜ける。
――そしてふいに、風がおさまると。
「……どうして……ですか…」
下を向いたままのの静かな声が聞こえた。
「どうして……どうしてそんなこと言うんですか…!?」
震える声で言い、顔を上げたは深い怒りと悲しみに涙を零していた。
両の手は堅く握られ、紫苑の水干に包まれた肩は小刻みに震えている。
――この少女が怒りをあらわしたこと。
それは、今までにも幾度となく見たことがある。
だが今向けられているの表情はそれらとは違う、泰明が初めて見る表情だった。
「……怒っているのか?」
訊かれている立場なのに、泰明はそんなことも構わず尋ねる。
「……はい」
涙を零していても、弱々しさは無い。
強く泰明を見つめる瞳ではしっかりと頷いた。
「…何故だ?」
そう尋ねた泰明に、はしばらく静かに沈黙する。
が――次の瞬間。
緑色の双眸から、ぽろぽろといくつもの大粒の雫をあふれ出させたかと思うと、途端には幼いほどの泣き顔になった。
「心配したんですよ…! ずっと…ずっと……!」
喉の奥から嗚咽が、胸の奥からせつない悲しみが漏れてくる。
「あのあと、私…泰明さんを追いかけたのに…! 泰明さん…もういなくて…! 晴明様から泰明さんの気配が京から消えたって言われてしまうし……! 私のせいで泰明さんを苦しめてしまったのに、気づいてあげられないで、苦しめてしまったままで…って、そう思って目の前が真っ暗になったの…!」
今までの複雑に絡み合っていた想いを少しずつほどいてゆく。
それを泰明は変わらずに黙って聞いている。
「捜しに行きたかった…! 四神解放の手掛かりよりもあなたを捜しに行きたかった…!」
止まらなくなった涙は想いのかけら。
両手で顔を覆うが次から次へと零れてくる。
「三日間も……泰明さん…帰ってこなくて…! すごく心配した……! 泰明さんに会えなくて……すごく、寂しかった……!」
きゅっと唇を噛んでは顔を上げて泰明を見た。
「……それなのに…! 私のせいでも、あるけど……でも……!」
そこまで言っては再び俯き、再び泣いた。
――さら…と鶯色の長い髪が風に靡く。
同時に泰明は右手での頬に触れた。
「…?」
それに気づいたが泰明を見上げる。
すると泰明は――悲しそうな、寂しそうな、せつなげな表情をしていた。
「……泣かせてしまってすまない、。何故私はお前を傷つける言葉しか言えないのだろう」
「…泰明さん…?」
まだ嗚咽を漏らすの涙を、頬に触れている手の細く長い指で拭ってやる。
「私は、怒るという感情を知らなかった。いや、怒られるということが無かった。嫌悪や、やっかみでならあったが……今、お前に向けられたような怒りは初めてだった」
「え…?」
何の話が始まったのか解ってないに、泰明はゆっくり言葉を探す。
「……私は…私の中に生まれた不確かなものが解らず、戸惑い……それを考えるために、ひとりになった。だが、その考える合間には……いつも、が思い浮かばれた」
「…私が…?」
「お前の笑顔が…お前の涙が…お前の声が……お前という存在の暖かさが、私の頭から離れなかった」
「泰…明さん…」
驚いたの瞳は大きく瞬きをする。
その一方で、泰明は段々と表情を困惑に歪めていく。
「だが再び会えたお前に、私は……何故なのかは、よくわからないのだが……怒ってほしいと思った」
「え…?」
には、そう言った泰明が何だか幼い子供のように見えた。
「本当に、何故そう思ったのかはわからない。だが、確かにそう思ったのだ。だから…」
あんな言葉を――。
その先を言うのをやめて、泰明は俯く。
「泰明さん…?」
心配そうに泰明の顔を見上げ、覗き込んだの瞳を、泰明は翳る瞳で見つめ返す。
「私は……やはり、もう壊れていくのかもしれない。不思議なものを感じる度に陰陽の力は低下していき…。挙げ句の果てには、に怒ってほしいなどと考え……本当にお前を怒らせ、傷つけ、泣かせた……私はにとっても…」
「泰明さん!!」
きっとこのままなら悲しい言葉が紡がれたに違いない。
だからは、その言葉が泰明の口から紡がれる前に――泰明の胸に飛び込んだ。
「………?」
「そんなこと、ない…! そんなこと絶対にないです…!」
泰明が言おうとした悲しい言葉を、首を横に振って否定して、驚く泰明の背をぎゅっと抱きしめる。
「……もう、いいんです…! 怒ってません…! 泰明さんが帰ってきてくれたら…それだけで…私……!」
その先は涙で言えなかった。
伝えきれない想いの代わりに、は泰明の背を更に強く抱きしめて、泰明の胸元を涙で濡らしていく。
「………」
一方泰明は、突然の不測の事態にただ驚いて立ち尽くすことしかできないでいた。
「……あ…! ご、ごめんなさい…! 私ったら…!」
今頃自分の起こした行動に気づいたは頬を紅く染め、泰明から離れようとした。
しかし――。
離れようとするのその背を、咄嗟に泰明の両腕がぎゅっと止める。
「……泰明…さん…?」
背に回された泰明の腕が思いのほか強かったことや、真剣に見つめてくる琥珀と翡翠の瞳にの鼓動がとくん、と小さく高鳴る――が。
「……それだけで、何なのだ?」
「えっ…?」
真面目な眼差しで何を言い出すのかと思いきや、泰明は先程のの言葉の続きを要求してきた。
泰明なりに、やはりその先が気になったようだ。
「えっと…あの、つまり……泰明さんが無事に…ちゃんと帰ってきてくれたら、それだけで……いいんです」
は紅く染まった頬を両手で包みながら説明した。
「……いい、とは?」
「それだけで充分ってことです。それだけで嬉しくて……それだけで…何も望みません」
まだ頬に紅みを残しながらも、澄んだ新緑色の双眸で答えた。
「………」
の『答え』に泰明は驚きを隠せない。
「……何故、そのように言ってくれるのだ?」
そう言った泰明の表情は逆にひどく辛そうに見えた。
「私は……人ではないのに……」
「何を言ってるんですか」
幼い子供のように戸惑う泰明に、は安心させるように微笑み、彼の手に自分の手を重ね、握る。
「大丈夫。あなたは……泰明さんは、ちゃんと心を持ってる」
握られた手からに視線を移した泰明の中に、の笑みのような暖かいものが生まれる。
その証に――泰明の琥珀と翡翠の双眸から、綺麗な雫が零れ出す――。
「……これは…?」
泰明は己の双眸からあふれ出した雫を不思議そうに拭う。
「…ほら、泰明さん。これが証拠だよ」
も一緒に涙を零して、泰明の涙を拭うのを手伝う。
「涙は心の結晶なんです。だから、この一滴ずつが泰明さんの心を、想いを。あなたが人だってことを証明してるんだよ」
そう言って微笑んだの頬の雫が朝陽に反射する。
ゆえにの笑顔は本当に輝いて見えた。
と、その瞬間。
泰明の『心』にもうひとつの新たな『気持ち』が生まれ――。
「や、泰明さん…顔が、顔の肌の色が…!」
泰明の顔に施された封印の証、陰陽の太極を思わせる肌の色。
それが今、どちらとも象牙色の肌になった。
不思議そうに驚くに、泰明は暖かく微笑む。
「ああ……私に施された最大の封印が、今解かれた…」
が初めて見る笑顔。
本人も初めてするその笑顔で、を暖かい両腕で包み込む。
「や…泰明さん…!?」
泰明の優しい笑顔を見たことだけで心が高鳴っているのに、突然だが自然に抱きしめられて、の頬が紅く染まり上がる。
「お前のおかげだ、……。私は、お前が『愛しい』……」
心の奥からあふれる想いを、泰明は飾りもなく――ただ純粋に告げた。
「…泰明さん…!」
泰明の声と、腕と、心の暖かさに包まれて。
そして確かな想いを受け止めて。
の新緑の双眸から再び幾つもの雫があふれ、再び朝陽に輝いた。
――稀代の陰陽師と位高き天狗の術によって造られ、生まれたひとりの青年。
彼に施された封印は、彼自身と、彼を想う少女の朝露の如き涙に解かれた――。
end.
《あとがき》
泰明さん創作第一作目。神子ちゃんが、かなり泣き虫ですみません;
何分執筆者が泣き虫なので; それに実際すっごい泣いたんですよ、このイベントで。
とっても大好きなイベントだし、今でも繰り返し見てますけど、その度に色々な想いが
あふれ返っちゃってどうしようもなくって…。そんな想いを全部書いたつもりです。
三段階では泰明さんを追いかけたかったとか、捜しに行きたかったとか、再び会えた彼に対する怒りの理由とか…等々。
だって、双ヶ丘でやっと会えた彼に「あ、泰明さん」とか言って、道端で会ったような感じだったので、あれに参っちゃったんです(苦笑)
私自身はあの時点で涙ぼろぼろだったのに…; と、まあそんな訳なんかもあったり;
なんて何だかんだ言いながらも、いっつも感動してしっかり泣かされてる私(笑)
泰明さんの純粋な心と、それを演じる石田さんの声と演技も大好きですv
written by 羽柴水帆
