心の風の音





 灰色の空から雪片が舞い降りてくる。辺りは深い白で覆われ、寒さが身体の奥まで染み入ってくるようだ。
 部屋の中から雪景色を眺めやり、龍神の神子である少女――花梨はため息をついた。そこへ小さな足音とともに、星の姫が顔を覗かせる。
「神子様、泰継殿がお見えですわ。お通ししても、よろしいでしょうか?」
「泰継さんが? いいよ、入ってもらって」
 つい数瞬前に嘆息したことなど微塵も感じさせないような顔で、花梨は応えた。まだ幼い姫君に、いたずらに心配をかけたくはなかったのである。
 了解した紫姫が頷くと、髪飾りが涼やかな音を立てて揺れる。彼女が歩み去ってから、ほどなくして陰陽師の青年がやってきた。
「失礼する」という短い言葉とともに、泰継は室内に入る。花梨を見るなり、わずかに眉をひそめてみせた。
「どうかしたのか? 神子?」
「え?」
 内心でどきりとしながらも、少女はなるべく平静を装って泰継を見上げる。
「お前をとりまく気が、わずかに沈んでいる。何か憂い事でもあるのか?」
 泰継の問いに、花梨は曖昧に笑ってみせた。が、目の前にいる青年に隠し事はできないと判断したのだろう、自嘲めいたものを笑みに混ぜる。
「私って、助けられてばっかりなんだな、と思って……」
「……?」
 よく理解できないのか、陰陽師の青年は瞬きをする。そこで龍神の神子である少女は、泰継を立たせたままであることに気づき、慌てて座るように促した。
 地の玄武が腰を下ろすと、花梨は語を紡ぎ始めた。
「実は、泉水さんのことなんです……」
 天の玄武である源泉水が、院の息子であったことが判明したのが、つい先日のこと。彼はその真実に正面から立ち向かい、受け入れた。が、衝撃は相当なもののはずである。
「御本人は大丈夫だと言っていらっしゃるんですけれど、何だか無理をしているように見えてしまって……」
 皆に心配をかけたくはない。その気持ちがわかるだけに、問いただすわけにもいかない。それに自分が訊けば、「神子に心配をかけてしまった」と泉水は気にしてしまうだろう。天の玄武は、そういう性格の持ち主だ。
「何とか元気になってほしいと思うんですけれど、何をどうしたらいいのか、わからなくて……」
 花梨は半ば双眸を伏せ、寂しげに微笑む。
「神子は優しいな」
 日頃滅多なことでは表情を動かさない泰継であるが、この時は口元をほころばせた。花梨は重すぎる使命を、その身に背負っている。自分たち八葉や星の一族が傍についているとはいえ、落ち込むことや悩むことは多々あるはずだ。それなのに、この目の前にいる少女は、自分よりも他の者を気にかけている。もっとも、そんな彼女だからこそ、自分や他の八葉がついていくのだが。
「優しいだなんて、そんな……私はただ、いつも助けてもらっているから、何かしてあげられたらいいな、って思っただけです」
 この少女は気づいていない。自身の存在が、どれだけのものを救い、癒しているのかを。
 ――神子らしい。泰継はそう思ったが、口には出さず、沈黙の下で思案をめぐらした。そして自分が泉水と話してみると告げる。「龍神の神子」には言いにくいことでも、同じ八葉である自分になら、泉水も何か話してくれるやもしれぬ。
「そう……ですね。じゃあ、お願いします、泰継さん」
 龍神の神子である少女の口調は、少しばかり複雑であった。できることならば、自分も何かしたかったのだ。それを感じとってか、陰陽師の青年はこうも言った。
「だが、神子の力も必要だ。力を貸してもらえるか?」
 花梨は驚いたように地の玄武を見やった。彼がひとつ頷いてみせると、若々しい顔に笑顔が満ちる。
「はい! 勿論です!」
 自分にもできることがある。それを思うと、花梨は嬉しくて仕方がなかった。



 泰継が龍神の神子である少女の部屋を退出すると、ちょうど泉水がこちらにやってくるのが見えた。天の玄武は泰継の姿を認め、穏やかに微笑してみせる。
「おはようございます、泰継殿」
「ちょうどいいところで会った。泉水、時間はあるか?」
 唐突な問いに、泉水は驚いたもののすぐに首を縦に振ってみせる。
「ならば話がある。場所を変えるぞ」
「あ、は、はい!」
 さっさと歩きだした陰陽師の青年を追って、泉水は慌てて踵を返した。
 二人の八葉は星の姫の館を離れ、火之御子社までやってくる。そこでようやく、泰継は泉水を振り返った。この場に至るまで間、地の玄武は黙したまま、振り向くこともなければ、何も語ろうともしなかったのだ。
「単刀直入に訊く。泉水、一体何を悩んでいる?」
 泰継のどこか感情の欠いた声に、泉水はわずかに身体を震わせた。左右で色の異なる瞳が、天の玄武を見据える。
「隠さずともよい。気でわかる」
 泉水は重い吐息をこぼした。申し訳なさそうに、泰継に頭を下げる。
「……すみません」
「謝れ、とは言っていない」
 天の玄武は双眸を軽く伏せた。何をどう言うべきか、言葉を探しているようだ。先ほどまで降りしきっていた雪は、いつの間にかやんでいた。
「――わたくしは……ここにいてよかったのでしょうか……?」
 どれぐらい時がたってからであろうか。泉水はぽつりと呟いた。陰陽師の青年は、無言で彼の顔を瞳に映した。急かすことなく、次の言葉を待つ。
「……母上――女六条宮は、わたくしの存在が憎かったはずです。誰かを憎んで生きるなど、とても悲しいことです。そして、和仁様……あの方は、わたくしという存在のために、実の母親と別れることになり、挙げ句に道を誤ってしまわれた……」
 泉水はひとつ息をつくと、静かな声で言う。
「――わたくしが生まれたことは、望まれてのことだったのでしょうか……? このようなことを思うのは、愚かだとはわかっています。ですが、もし、望まれてのことではないとしたら……」
 自分の存在は、悲しみや憎しみしか招かない。ならば――いっそのこと存在しなければよかったのではないか。そうすれば、女六条宮も和仁も、いまとは違った生き方ができたのではないか。
 泰継は左右で色の違う双眸を伏せると、その口元に自嘲めいた笑みをのせた。
「おかしなことを言う。理にのっとって、この世に生を受けた存在でありながら……」
 天の玄武は瞳を見開き、恥じ入ったようにうつむく。
「も、申し訳ありません……」
 陰陽師の青年が、自分たちとは異なる方法でこの世に生まれてきたことを、泉水はつい最近になって知った。泰継がそのことに対し、少なからず思うところがあるということも。それなのに、自分は何ということを口にしたのだ。自身の言動を恥じる泉水の耳に、泰継の声が滑り込む。
「気にするな。私も、そのような意味で言ったのではない」
「ですが……」
「己の存在意義に悩むのは、人も同じなのだな……」
 地の玄武はどこか遠くを見るような眼差しを、天空に向けて放った。が、それも数瞬のことで、視線を空から泉水に移す。
「答えはお前の中にある。自分に問うてみるがいい」
「自分に、ですか?」
 泉水は戸惑ったように、視線を彷徨わせた。「自分に訊いてみろ」と言われても、どうすればいいのかわからない。彼の困惑をよそに、泰継は懐から一枚の符を取りだした。
「目を閉じ、気を鎮めろ」
「は、はい」
 何をする気なのだろう。そう思ったが、泉水は言われたとおり、双眸を幕で覆い、深く息を吐いた。正直な話、気の鎮め方などよくわからなかったが、笛を奏でる時と同じ要領で心を落ち着かせてみる。
 泰継は右手を首飾りに絡ませ、左手に符を持つ。顔の前に符を掲げ、瞳を閉ざした。
「――符に託されし力と祈りを以て、我、いまここに願い奉る……」
 符が淡い輝きを放ち始める。
 ――風の音が聞こえる。
 泰継の声がだんだんと遠ざかり、かわって風の音が近づいてくる。泉水はそう感じていた。やがて閉ざされた視界と同様に、意識にも闇が満ちた。



 風が舞っていた。草木が音を立てて揺れ、微かだが甘い花の香りがする。
 泉水は呆然と周囲を見回した。つい先ほどまで、自分は火之御子社にいたのではなかったか。そして目の前には、陰陽師の青年がいたはずだ。だが、瞳に映る景色はがらりと変わり、泰継の姿もない。
「……ここは、一体………?」
 思わず呟いた声も、風に運ばれていく。見たことのない景色――どこかの庭のようだ。だが、奇妙な懐かしさが胸に満ちてくるには、何故だろうか。
 何かに誘われるように、泉水は足を踏み出した。やがて美しく整えられた庭の、一本の木の下に若い女性が座っているのを認める。見たことはないが、身なりからして、身分の高い者なのだろう。長く綺麗な髪を風にそよがせ、細い腕には赤ん坊を抱いていた。
 女性には泉水の姿が見えていないようであった。腕の中の赤ん坊の顔を覗き込み、優しい微笑みを向ける。慈愛に満ちた眼差しには、同じくらいの幸福感もあふれている。すると赤ん坊が瞳を開けた。
「――!?」
 赤ん坊の瞳を見た瞬間、天の玄武は全身に言葉にはできない衝撃が走ったのを感じた。それとほぼ同時に、胸の奥が熱くなる。女性の腕の中の赤ん坊の瞳の色は、自分のそれと全く同じであったのだ。
 女性は赤ん坊の身体を軽く持ち上げ、自身の頬を寄せた。その小さな手に触れ、ささやくように歌を口ずさみ始める。

『答えはお前の中にある。自分に問うてみるがいい』

 ふいに泰継の言葉が脳裏に甦った。
 それは、こういうことだったのだろう。天の玄武はようやく理解した。目の前にいる女性と、彼女の腕の中にいる赤ん坊が何者なのかを。そして、その幸せそうな光景が、意味するものを――。
 これは記憶……遠い遠い昔の、自分という世界の最奥に眠っていたもの。
「………わたくしは……望まれて……愛されていたのですね――」
 視界が揺れ、目頭が熱くなる。滲んだ視界に女性の姿を映し、そっと呟いた。
「――母上………」
 すると女性が何かに気づいたように、顔を上げた。見えていないはずの泉水の方を見、赤ん坊に向けていたものと同じ、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。

 ――……泉水……。

 そんな声が聞こえたような気がした。おそらく風の音であろう。目の前にいる女性が、いまの自分の名を知っているはずがない。だが、たとえ空耳でも、泉水には充分であった。光の雫が波となって頬をつたう。
 ――風の音が、少しずつ遠ざかっていった。



 ゆっくりと瞳を開けば、そこは火之御子社であった。目の前には、泰継の姿もある。
「答えは、みつかったようだな」
 陰陽師の青年は、確かな笑みを口元に飾った。
「――はい……泰継殿のおかげです」
 まだ涙の残る目元を袖で拭い、泉水は微笑んだ。身体の奥には、まだあたたかいものがある。そのあたたかさが、先ほど自分の見た光景が、決して夢ではないことを告げてくる。
「……ありがとうございます、泰継殿」
 泰継は足下に視線を落とした。そこには、先ほどまで符であったものが、その役目を終え、灰となって散らばっている。
「礼ならば、私にではなく、神子に言うのだな。符に込められた神子の力がなければ、この術は使えなかった」
 彼の口から、花梨が泉水を心配していたこと、術に必要な力を符に込めてくれたこと等が語られた。
「……そうだったのですか。神子には、とんだご迷惑をおかけしてしまいましたね。勿論、泰継殿にも……」
 そこで泉水は気がついたように、泰継を見やった。
「ですが、どうして……? 符に神子の力を込めて頂くなど、まるでこうなることを予期されていたようですが……」
「先ほども言ったはずだ。己の存在意義に悩むのは、人も同じなのだな、と」
 それだけ言うと、陰陽師の青年は泉水に背を向けた。二、三歩ほど歩いたところで、肩ごしに左右で色の異なる瞳を向ける。
「――神子が心配している。一度屋敷に顔をみせにいけ。それから、告げるのならば、礼だけにしておけ。神子は、お前に謝罪などしてほしくないはずだ」
 言うべきことを言うと、返事も聞かずに歩みを再開する。今度は振り返らなかった。
 その背を一礼して見送り、泉水は双瞳を空に向けた。耳の奥には、まだあの風の音が残っているような気がする。
 龍神の神子である少女に会いにいこう。言いたいことも、伝えたいこともある。その中でも、一番言いたいことは礼であり、伝えたいことは――。

「――わたくしは、この世に生まれてきてよかったと、心から思います」

 雪のやんだ灰色の空から、わずかだが陽光がこぼれ始めていた。



                       ――Fin――



 <あとがき>

・久々に書きました、遙か2創作です。時空界一周年記念創作でもあります。内容はちっとも一周年とは関係ないですが; 今回は玄武のお二人をメインにしてみました。遙か2はまだあまり慣れていないので、おかしな部分があるとは思いますが、大目に見て頂けるとありがたいです;
 自分が何故生まれたのか。これははっきり言って、誰でも一度は考えるのでしょうね。そして、ほぼ永遠の課題とも言えると思います。ですが、生まれてきたからには、「生まれてきてよかった」と思えるような人生を歩みたいものです。できることなら、それを感じるために生まれたと思いたいぐらいです。皆さんはどうでしょうか?
 ここまで読んで下さって、ありがとうございました。これからも時空界をよろしくお願いいたします。



              2003.10.8    風見野 里久