――――この声が聴こえますか?
この想い、届いていますか?
今の私には、空を仰いで祈ることしかできません。
猫曜日〜祈りの空〜
遙かなる時空を隔てた世界での戦い。
白と紅の軍は、龍神に選ばれし神子の尽力により、和議を結んだ。
しかし白の軍――源氏の棟梁を守護していた異国の神が、神子の世界へと飛来する。
その悪行を阻止するため、神子と天の青龍と白虎が生まれ育った世界へ、八葉全員と陽の龍神、そしてふたりの神子が跳躍したのだった。
源 頼朝を守護していた神――荼吉尼天を無事倒し、封印に成功したところまではよかったが、何故か龍神が時空の道を開くことはできなかった。
と有川兄弟以外の、異世界の者たちは元の世界へ還れるまで、こちらに身を置くこととなった。
寝ぼけ気味の冬の太陽がようやく顔を出した頃。
有川家の庭に、八葉のひとり――天の玄武・平 敦盛の姿があった。
この世界へ来てから初めて身につけた洋服や、肩に流れるぐらいに切りそろえた紫の髪。
最近になって大分慣れてきた。
敦盛は、天の白虎であり、有川家の次男である譲が綺麗に整えた庭から、空を見上げる。
――冷たい空気と、蒼く澄んだ空。
吐息が白く儚く吸い込まれていく。
敦盛は優しく、また淋しげに微笑った。
なぜか込み上げてきた熱い思いを鎮めて、敦盛は散策にでも出ようときびすを返した。
有川家の門扉をくぐろうとした刻だった。
それまでまぶしく差し込んでいた陽射しが、ふっと遮られる。
何だろうと思った敦盛が、影のかかった方を見上げてみると――白っぽくて大きな物体が視界を占めた。
「……っ!?」
驚いて紫の双眸を見開き、しばらく固まってしまう。
有川家の塀の上で、まるで猫版力士のようなでっかいそれが“こうばこ”を作っていた。
大きな身体が塀からはみ出しているが、反ってそれでバランスが取れているらしい。
敦盛の視線など気にもせず、どっしりとくつろいでいる。
猫の目は眠そうに閉じたままだが、敦盛は完全に塀の上から見下ろされていた。
何と大きな――と、敦盛は本音を胸中でつぶやく。
「あ、敦盛さん、おはようございます!」
しばらくその猫を見ていると、隣りの家に住む少女――が明るい笑顔と共に声をかけてきた。
「神子……ああ、おはよう」
やや和らいだ表情で挨拶を返す。
以前より少しは、素直に感情や言葉を表せるようになった。
それもこれもこの少女――白龍の神子のおかげである。
と出会い、接し、そして彼女によって巡り会えた仲間との時間が、敦盛を少しずつ変えてくれた。
「どうしたんですか?」
「い、いや、その……散策に出ようと思ったのだが」
目にとまってしまった原因を視線で示し、もそれに倣ってみる。
「ああっ、もちづきちゃん!!」
「も、もちづき……?」
神子が叫んだ名前を、思わず繰り返してしまう敦盛。
瞬時に名前の由来が解った気がした。
「はい、この子、うちの近所の猫なんですよ。それでこの辺が縄張りなんでしょうけど、よくこうやって譲くんたちや私の家の、塀とか屋根の上でくつろいでるんです」
それはもう自分の家みたいに、とは笑ってみせる。
「そ、そうなのか……そして、名前が……もちづき……?」
どうしても聞き直してみたかった。
長い秋桜色の髪を持つ少女は、今度は苦笑するように笑った。
「ええ、その……満月みたいだからって」
は敢えて『何が』とは言わなかったが、それが猫の体型を意味していることくらい容易に判った。
「そうか……なかなか、風流なのだな」
望月とは、満月の別名である。
元々根が優しい敦盛なりのフォローだな、とは思った。
「ま、まぁ、そうですよね。でも将臣くんったらふざけて『もちつき』とか『もちお』とか、『もちすけ』とか言うんですよ」
言われてみれば、猫の毛の色は真っ白というより、『ほどよく焼けたおもち色』という感じだ。
そして何よりその大きくて丸い身体が、鏡餅や柏餅を連想させた。
ふたりがつい忍び笑いをしてしまう。
すると、それまでびくともしなかったもちづきの耳がぴくり、しっぽがぐりん、とそれぞれ動いた。
ぎくっとしてや敦盛が見上げてみると、心なしか彼の眉間にしわが寄っているようだった。
「と、言うことは……もちづきは、雄なのだな」
「は、はい、そうです」
取り繕うような会話の後、は慌てて塀の上のもち色猫に謝る。
「ごめんね、おもちに例えられるのが嫌なんだよね〜」
神子の必死の謝罪にもかかわらず、もちづきはプイッとそっぽを向いた。
「あぁ……矜持を傷つけてしまったか」
「ごめんってば、もちづきちゃん〜!」
よっこらしょ、と立ち上がり、敦盛やに完全に背を向けると、もちづきは塀を降りていずこかへと行ってしまった。
「……すまないことをしたな」
「えーと、結構自尊心が高い子なんですよね」
と、は苦笑いをした後、「でも――」と表情を改めた。
「もちづきちゃんのことは、私や将臣くんたちが小さい時から知ってるんですけど、ここ一、二年ですっかり変わっちゃいました」
「変わった?」
敦盛の声にこくりと頷き、は少し以前の記憶の糸を手繰りよせる。
「前は――体型はそのままですけど、もっと猫らしく俊敏だったんですよ。なのに最近は……老けちゃったというか」
「そ、それは……神子たちの幼少時から生きているなら、相当な歳だからではないのか?」
またもや敦盛は、もちづきをフォローするかたちになった。
「確かにそれもあると思うんですけど、でも……前は目が合うとエサをねだってきたりしたんです。なのに最近は、『おはよう』って声かけても、チラッとこっち見るだけですぐ寝ちゃうし」
可愛がった過去があるだけに、としても、もちづきの変わり様はショックだった。
「単に歳なのか、具合でも悪いのか、ちょっと心配なんですよね……」
淋しげに俯く神子の横顔を、敦盛も気遣うような瞳で見ていた。
冬の季節にとって、一番ありがたく思われる時間がやってきた。
正午を少し過ぎた頃、大地に恵みをもたらす太陽が最も力を発揮する。
有川家の屋根の上で、満月の別名を持つ猫がくつろいでいた。
――と、その刻だった。
何かの影が地上から跳躍し、もちづきの隣りに降り立った。
その突然の出来事にも、別段驚くことなく、彼はチラリとそちらを見やる。
そこに居たのは――紫の髪と瞳を持つ少年だった。
「……突然、すまない。隣りに座ってもいいだろうか?」
天の玄武の問いに、もちづきは主だったリアクションは起こさなかった。
目を閉じて、顔を元の位置に戻していく。
「……ありがとう」
別にそれが、もちづきにとって了承の意味であるはずだと決めつけたわけではない。
とりあえず「帰れ」と言われたのではないようなので、敦盛は礼を言ったのだった。
――今日はいつもよりもあたたかい小春日和。
人間だけでなく、猫にとってもこれほどありがたいことはないだろう。
しかし、敦盛がもちづきを見てみると――ひなたぼっこを満喫しているようにも見えるが、どこか表情が冴えない。
人間以外の動物が笑ったり泣いたりすることは出来ないけれど。
喜びや悲しみ、機嫌がいい悪いの表現はそれぞれあって、見れば大体解るものである。
けれども今のもちづきは、目を閉じているのは『まぶしい』とか、『寒い』からだけではないと思う。
敦盛にはどうにも、もの悲しい顔に見える。
『単に歳なのか、具合でも悪いのか、ちょっと心配なんですよね……』
神子の言葉が今、改めて胸に染み入る。
相手の気持ちを思いやれる、彼女の天性の素質を感じた。
「譲くん、朔。敦盛さん、見なかった?」
そろそろ昼食の準備を始める様子の有川家。
は色々と捜してみたのだが、家の中に天の玄武の姿が見当たらなかった。
「敦盛殿? 先ほど、散歩から帰られたみたいだったけど……」
「そのあとは見てませんね」
一つ年上の親友と、一つ年下の幼なじみの返答。
は「そっか」と言うと、ひとつ思い当たる場所が脳裏に生まれた。
「あ、そういえばね、譲くん。さっきお家の塀のとこで、久しぶりにもちづきちゃんに会ったよ」
ふと今朝方のことを思い出したが、幼なじみの少年に告げる。
「ああ、あのもちづきですか? 本当に久しぶりですね。元気そうでしたか?」
「それがねぇ……」
やや残念そうに、はもちづきのものぐさぶりを話した。
「ああ……そういえば、そうでしたね。まぁ、無理もないんじゃないですか」
と、譲はなぜか納得したような声を出した。
「え? 譲くん、何か知ってるの?」
はもちづきがあんな風になってしまった経緯や理由などを、全く知らなかった。
「ええ、大体のことは。確か――」
一つ年下の幼なじみから語られた内容は、の胸を次第にせつなく締めつけていくのだった。
空が高く蒼くて、雲を運ぶ風がおさまれば、陽射しが途端に暑くなる。
有川家の屋根の上で、一匹の猫とひとりの少年が並んで座っていた。
特に何をするでもなく、ただ座って紺青の空を見上げていた。
――どれほどの時が流れた頃か、その時間に終わりを告げる音がした。
敦盛たちの居る屋根に、ガタッと何かが掛けられたのは――はしごである。
驚いたのは、敦盛だけだった。
しばしして屋根の上にひょっこりと顔を出したのは、紛れもなく白龍の神子だったのだ。
「み……神子!?」
「あ、敦盛さん、やっぱりもちづきちゃんとここに居たんですね」
何がやっぱりなのか――と思ったのも束の間、はしごから屋根へ移ろうとした少女が片足を踏み外してしまう。
「きゃぁ!?」
「神子!!」
まるで飛ぶように速く、敦盛は神子の元へ駆け、彼女の細い手を掴んで引き寄せた。
の身体の重心が、宙から屋根と敦盛の方へ移る。
やがてふたりの周りに起こった風がおさまり、少女の長い髪がふわりと舞い降りた。
――少しの間、ふたりはそのまま動けなかった。
辛うじて呼吸は出来たかもしれない。
沈黙の空気が少々長引いたのは、突然の危機感と、何とか助かった安堵感が入り混じったせいだった。
「……神子、大丈夫か?」
「は……はい」
敦盛は決して落とすまいと強くを抱きしめていて。
はとにかく夢中で敦盛にしがみついていた。
「……よかった」
「あ……ありがとうございました。敦盛さん」
改めて安堵し、息をついた敦盛や、も腕の力を緩めた刻。
ハッと我に返ったように、双方の視線がぶつかった。
「す、すまない」
「い、いえっ、そんな! 私こそ、助けてもらったんですから……!!」
急に気恥ずかしくなって、ふたりはなるべくゆっくりと離れた。
腕に残る互いの感触が、余計に頬を火照らし、鼓動を速くする。
と、もちづきが「くわ〜っ」とこれみよがしに大きなあくびをした。
そんなもち色猫を見たふたりは、顔を見合わせて、やがて苦笑するように微笑った。
「と、ところで神子。なぜここへ?」
――の手を引きながら。
敦盛は「どうやって」来たのかも、具体的に訊きたかった。
「お散歩から戻ったはずの敦盛さんが、譲くんの家に居なかったし、ひょっとしたらもちづきちゃんと屋根の上にでも居るのかな〜と思ったんです」
そうしたら案の定、予想が的中したらしい。
あの世界に居た頃から、敦盛は「特に用がない時」は屋根に居たりすることがあった。
「だから私も行こうと思って、はしごを借りてベランダから……」
最後の方は苦笑いをしながら、は右の頬を人差し指で掻いた。
「実はもちづきちゃんのことで、敦盛さんに伝えたいことがあって」
もちづきの隣りにふたりが腰をおろしたところで、は表情を改める。
「私に……もちづきのことで?」
敦盛は、気品あふれる紫の双眸を瞬かせた。
「はい。私もついさっき、譲くんから聞いたんですけど。実はもちづきちゃん、二年前に――」
その瞬間、有川家の屋根に座る少年少女と猫の上を、数羽の白い鳩が飛び去っていった。
「…………そうか」
神子から聞いた真実に、敦盛は悲痛な面持ちで瞳を閉じた。
――もちづきは二年前に、三匹の子供を失くした。
いずれも交通事故だったらしい。
「猫って普通、子育てするのも長くて三ヶ月間くらいだし、死んじゃったりどこかにもらわれて離れ離れになっても、いつのまにか忘れてるものらしいですけど。でも、もちづきちゃんがこうなったのは、その事故で子猫を失くした時からなんだそうです」
「……やはり、悲しかったのだろうな」
「そうですね。きっとそうだと思います」
天の玄武と神子が、満月の別名を持つ大きな猫を見やる。
もちづきは、目閉じたままじっと蹲っていた。
「――もちづき」
敦盛は、右隣りでこうばこ座りをしているもち色の猫に語りかける。
「私の一門……家族も、たくさん亡くなった。この世界は戦のない平和なところだが、私の生まれ育った世界では大きな戦があったのだ。だから、命を落としたのは私の家族だけではない」
敦盛は空と広がる街並みを見据えたまま、真剣というよりは、穏やかで落ち着いた顔をしていた。
「家族や友人を亡くした時……その悲しみは計り知れない。誰だって同じだ。それを乗り越えるのが容易ではないことも。だが、どうか受け入れることだけは、してあげてほしい。子供たちのためにも」
偶然だったのかそうではないのか、その刻もちづきが半分ほど目を開けた。
「命を失った者にとって、現世(うつしよ)に残らなければならないのはとても辛いのだ。現世では生きられない。天(そら)へ逝かなければ解放されないのだ」
その言葉にハッとして、は隣りの少年の横顔を見る。
すると敦盛は「大丈夫だ」というように、微笑んでみせた。
「悲しみ、願われる気持ちは無論子供たちも嬉しいだろう。けれど……それが子供たちの心を現世に引き止めることになってしまいかねない。それでは誰も救われないのだ」
そうなってしまうことが、一番悲しい結末を招いてしまう。
敦盛はそれを、誰よりもよく知っていた。
「どうか受け入れてほしい。そして、改めて見送ってあげてほしい。そうすることで、もちづき自身と子供たちが解放されるんだ」
天の玄武の涼やかな声のあと。
満月の別名を持つ大きな猫は、その日初めて空を見上げた。
すると――また白き鳩が、陽光を遮りながら羽ばたいていく。
敦盛とも同時に仰いでみる。
その瞬間に見えたものは――何の印で、何の証で、誰の言葉だったのか。
斜めに傾き始めた太陽と、白く浮かび上がってきた月の狭間。
小さな小さな光が、きらきらと輝きながら昇っていくように溶けていく。
ほとんど無意識に、白龍の神子である少女が両手を組み合わせ、祈った。
――それまで硝子のようだったもちづきの瞳に、光が弾ける。
の緑色をした双眸からも、一筋の涙が零れた。
その涙をぬぐったのとは反対の手が、そっと握られる。
「敦盛さん……」
それは勿論、彼の手だった。
凛々しくも優しく微笑まれ、は胸がいっぱいになって手を握り返す。
そして瞳に雫の残る笑顔で、彼の肩に寄りかかった。
と、どっしりと座り込んでいたもちづきが、その重そうな身体を持ち上げる。
敦盛の膝に、よっこらせと乗りかかってきたのだ。
「あ、もちづき……?」
「さすが敦盛さん、懐かれたんですね! 最近、もちづきちゃんが誰かの膝に乗ってるとこなんて見たことなかったもの」
しばらくの間、どうくつろぐか吟味していたもちづきは、幾度か敦盛の膝の上をぐるぐる廻り――の方に顔を向けて落ち着いた。
「よかったですね、敦盛さん」
「ああ」
笑顔のに応え、敦盛も穏やかな微笑で、もち色毛並みの背を撫でてやる。
「あ、でも重たくないですか?」
もちづきの頭を撫でていたが、笑って問いかけた。
「い、いや、その……少し」
気まずそうに、でも正直に言ってしまう敦盛。
またもちづきの耳がぴくぴく、と動く。
「だが、それは……もちづきが生きている証だから」
敦盛のその言葉はフォローではなかった。
やがてもちづきは、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
――――いつしか命は失われる。
悲しみの雲が立ちこめ、涙の雨が降り続いても。
強く優しい光のある空は、必ず晴れるから。
猫と過ごすこの日。
あの空へ還った命たちに、この祈りが届くことを信じて――。
end.
《あとがき》
敦盛さん創作第三作目。運命の迷宮仕様です。そしてそして、今年も姫祢様主催の敦盛さん誕生祭、
『―青葉の音2―』に投稿させて頂いたものです。
……あれから一年。本当に一年ぶりです、創作ひとつ書き上げたのは……(汗)
書きかけばかりで終わらない中、よーやく書き終えられたのがこのお話です。
実は、半年前ぐらいから、ちっとも筆が進まない自分に鞭打つためもあって、今年の敦盛さん誕生祭に
参加することを決めました。もちろん、純粋に敦盛さんをお祝いしたい!という気持ちでの参加ですけど;
何とか振り絞って書き上げましたが……未だにどろ沼から抜けきってないように感じます。
以前は書くことがもっと楽しかったのに…。あぁ、未熟未熟(-_-;)
暗い話はもう置いといて; そういえば、さまが有川家に来た時、本編では譲くんと朔ちゃんしか
登場しませんが、最初に書いた時は景時さんも出して、三人でお昼ご飯を作っている場面にしていました。
でも、ただでさえ長い話になってるのに、これ以上容量が増えたらマズイと思ってカットしちゃいました(^^;)
投稿作品ですからね。なるべく短い方がベストです(T▽T)
けど、その場面はいつかまたどこかで使いたいと思います。
written by 羽柴水帆
