更新2004.2.14
湯田上温泉
かつての温泉は単純泉となっていますが、源泉には白色の湯花が生じているので、それなりの成分が含まれていると思われます。写真にも見られるように、明治12年(1879年戊辰戦争の12年後)に作られた「諸国温泉一覧」の中にも全国の著名な温泉と並んで「越後田上の湯」と記載されています。ここに書かれている効能は「ソウトク」(梅毒)と書かれています。最初は源泉の近くに小屋を建て温泉を提供していたようで、現在でも湯小屋と呼ぶ名前も残っています。昭和45年頃までこの源泉を利用して,温泉組合によって共同浴場が経営されていました。ここに書かれていた効能はリューマチ、神経痛、婦人病などと書かれていたと記憶しています。
注;単純泉とは温泉の成分が何もないと言う意味ではありません、温泉法では1リットル当たり1g以下の成分が含まれる場合を単純泉と呼びます。この種類の温泉は特定の成分が多く含まれている温泉よりも適用される病状の種類と範囲が広い特徴があり、飲料にしても効果がある場合が多いものです。
この共同浴場に貼られた警察署発効の古い注意書きには「癩病梅毒疥癬患者及ビソノ験気スベキモノ入浴スルベカラズ」と書いてありましたので諸国温泉一覧の効能を期待する人は入浴できなかった事になります。この共同浴場は出火で全焼し、その後建て替えられましたが、時代の変化に対応できず、現在は営業が行われていません。かつてはこの共同浴場の付近には13軒の旅館があり、大いに賑わいました。特に土用の丑の日は丑湯と呼ばれ、この時に入浴すると1年間無病息災で過ごすことができる言われていて、狭い道路は多くの出店と人であふれ、旅館も大入り満員となって旅館の廊下に寝る人も出るほどでした。現在は古い旅館街はすっかり寂れ、往時の面影はありません。代わって近代的な大型のホテルや旅館が自動車の便の良い場所にできてすっかり様変わりしています。
その後、護摩堂山登山口近くの場所で新たに温泉を掘削、ここから豊富な温泉が自噴しました。平成11年7月からこの新しい温泉を源泉として各旅館に温泉が配られています。この温泉は豊富な温泉の成分を含み慢性皮膚病、糖尿病、肥満症、慢性婦人病,慢性消化器,動脈硬化症などに効くとされています。
昭和10年頃の共同浴場
写真は湯田上温泉の末廣館主、細井廣行様、元・羽生田郵便局の局長桑原義次様のご厚意によります
注;
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明治12年作成の諸国温泉一覧(東京都大田区中西家蔵書)
史実か民話か?団九郎穴の話
田上町の川の下と呼ばれるところに産婆さんがいました。ある夜、戸をたたく音がするので、出てみると若い男の人が、女房が産気ずいたのて゛すぐに来てほしいとのこと。知らない若者で、不審に思ったものの商売柄断るわけもいかず、了解をすると、実は訳があって自分の居所を知らせることができないので目隠しをしてほしいと頼まれました。産婆さんは不安でしたが、要求を受け入れ、目隠しをしたまま若者に背負ってもらいました。若者は産婆さんを背負ったままどんどん歩きました。途中、体に笹の葉などがあたったり、川や滝の音もしていて深い山の中に入っていく様子だったそうです。
若者の家に着いて目隠しを取ると、そこは洞窟の中の様子、きらびやかな家具調度類のある部屋に美しい若い女性が床に臥していたそうです。ここで産婆さんは無事に赤子を取り上げました。若者は丁寧にお礼をのべました。しかし、事情があって何もお礼をすることが出来ないので、大切にしていた短刀を産婆さんに渡したそうです。若者は再び目隠しをした産婆さんを背負って、行く時と同じような深い山のけはいのする道を戻り、産婆さんの家に無事に届けたそうです。後に、この短刀はたたりがあることがわかり、近所の神社である川の下不動堂に預けることになったとのことです。この不動堂には県の文化財に指定された薬師如来像があり、平安時代後期の木造像と言われています。
産婆さんに出産を手伝ってもらった夫婦の正体は狐であって、人間に化けて出産を手伝ってもらったとの説や、城が落城した時の落人が隠れていた時の話ではないかとの説もあります。護摩堂山を登る途中の8合目付近から右にそれ、100mほど進んだ場所に団久郎穴と呼ばれる穴があったそうです。昔はこの穴の前に立ち、膳や食器の借入れをお願いすると、頼んだ通りのものが翌日用意されていたとの事です。しかし、借りたまま返さない人が出てから二度と貸してもらえなくなり、その後この狐は新潟の青山(新潟市青山にも団九郎伝説があります。)に引っ越して行ってしまったそうです。私の祖父の時代はまだこの洞窟が残っていて、穴の中は広々として滝も流れていたと言っていたそうです。残念な事に、ここの場所は俗に護摩堂石と呼ばれる耐火性のある良質のかまど用石材が採れる場所であり、その後の採石作業によって石屑で埋まってしまったそうです。その後昭和の初期に観光協会の手で発掘を試みましたが、ついにこの穴は発見できませんでした。
注;
新潟県古志郡山越村に伝わる蛇のヘソと呼ばれる伝説があり、この村の宝である蛇のヘソと呼ばれるものを持ってシマ権現と呼ばれる池のほとりに行って必要なものを借りるお願をすると、翌日それが揃っていて、貸してもらうことができた。しかし、ある出来事でこの蛇のヘソを紛失してから二度と貸してもらえなくなったとする先の伝説と似たものがあります。(磯部定治著 ふるさとの伝説と奇談<上> 野島出版参照)
また、新潟県北魚沼郡小出町(虫野)の白いおかめ狐と呼ばれる伝説があり、ここでも狐が人間に化けて取り上げ婆さんにお願をして、人間に化けた狐のお産を手伝ってもらったとする伝説があります。この時のお産のお礼はブナの葉3枚になっています。(磯部定治著 ふるさとの伝説と奇談<下> 野島出版参照)
木造薬師如来像(県文化財指定)
平安時代後期の作
田上町文化財のしおりより
掲載許可・前田上町文化財調査審議委員長中野粂男様
追記;団九郎は狐ではなくタヌキ?
団九郎は狐ではなくて狸の間違いではないかとの質問がありました。かつて田上町の古い言葉には「ムジナ」の呼び名はありましたが、狸と言う言葉はありませんでした。もちろん歌や物語としての「タヌキ」はありましたが、この町には関係がない別の世界の動物としての認識が一般的でした。「ムジナ」が人を化かす話もありましたが、「狐」の方が化かす力が強いことは常識でした。
はずかしい話ですが、私の祖父が狐に化かされた実話が残っています。祖父が追い越し山で山仕事をしていると狐が現れたので、これを追うためにナタを投げたら、ナタが狐の尾に当たり、尾が取れたまま逃げていったそうです。祖父は狐を半殺しにしたのでタタリがあると恐れているうちに、立って歩くことができなくなり、四つんばいになって灯油を舐めたりして、俗に言う「狐つき」になってしいました。幸いにも、祈祷師にお願いしたところ、祈祷師が「こんな狐は焼き殺してやる」と言ったとたんやっと正常になったとの話です。今で言えば、狐のタタリをあまりにも恐れ、自己催眠にかかってしまったのでしょうか?
親鸞聖人にまつわる越後七不思議「繋ぎ榧」、国の天然記念物に指定
越後七不思議の一つに数えられている「田上の繋ぎ榧(つなぎがや)」は親鸞聖人(1172〜1262年)が護摩堂山の城主・宮崎但馬守に招かれて法話をした際に、城主が榧の実で作った数珠を差し上げたものを聖人が植えたところ、これが芽を出し、その葉は途中で裏返り、実は数珠の穴の跡が残ったと言い伝えられています。
この原木は護摩堂山の頂上から北東方面の急峻な崖を少し下ったところにあったと言われています。残念なことにこの場所は雪害を受け易い場所にあるためか、原木と思われる老木はありません。この榧の自生地は国の天然記念物に指定されています。護摩堂山のふもとにある了玄寺には、樹齢700年余と言われる榧の木の老木があり、この木は先の場所から移植したと言われています。
(天然記念物の指定は大正11年10月12日で「了玄庵のツナギガヤ」、「田上町ツナギガヤ自生地」として了玄寺の榧の木と護摩堂山の自生地の両方が指定されています。)
榧の木はイチイ科の常緑樹で雌雄異株です。了玄寺にある株は実が成るので雌株です。この寺には、百日紅(猿滑り・サルスベリ)の老木もありますが、こちらは雄株です。中国南部原産ミソハギ科のこの木も雌雄異株ですが、仏教と一緒に伝わった当初はすべて雄株だったようです。
了玄寺の繋榧 1999.5.22
注;
- 了玄寺は田上町山田にあり、山号は護摩堂山。真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来。尼寺であったが昭和になって酒屋(新潟市)の西養寺を本坊として開祖された比較的に新しい寺です。境内の南側の高台一帯はかつて護摩堂72坊の一つであり、東の東龍寺とも呼ばれた西養寺跡と言われています。
- 越後七不思議は親鸞上人にかかわる伝説です。科学の進歩した現代では、迷信と決め付けられてしまうような話です。しかし、現象そのものは、どれも動植物学上の極めて珍しい自然現象であり、親鸞上人は動植物学にも詳しかったとの説もあります。 参照 越後七不思議
田上町の旧石器時代から縄文時代、弥生時代、古墳時代の遺跡その他
田上町は古い時代から人々の営みがあり、旧石器時代から古墳時代までに相当すると思われる遺跡がありました。しかし、証拠の残っていた場所の多くはその後の開発で消えてしまいました。私が採集した遺物も町の個人歴史研究家の小野さん(田上町山田)にすべて寄贈してしまいました。この小野さんも今は鬼籍に入られてしまい、その後の保存状態は不明です。御家族によって保存されていることを願っています。最近の情報をお持ちの方が居られましたら、是非連絡をお願いいたします。
連絡先
旧石器時代の遺跡
昭和31年の雪解け頃、このホームページの作者長谷川彰と同級生の坪田浩は田上駅の近隣にある国鉄官舎裏側にある小さな丘の崖面から縄文時代の遺物を採集していました。この場所からは縄文中期の土器の破片や黒曜石で出来た矢尻、炭化したトチの実やドングリを採集することができました。これらはすべて黒土の中から採集されるのが常識となっていました。ところが、凍って剥げ落ちそうな崖の面を無理に引き剥がすと大量のゲジゲジがここで冬眠していました。ゲジゲジが退いた跡を見ると、これまで見た事もない石器が見えました。しかも、これまでの黒土ではなく、黒土の下の粘土層からの発見です。つたない知識でしたが、これが旧石器ではないかとの可能性を強く持ちました。しかし、異なる時代の遺跡が堆積している複合遺跡や、旧石器に関する認識が薄かったこの時代では誰れにも相手にされず、密かな期待として胸に秘めておきました。
その後、博物館などで見ても、同類の石器がない事に気づき、やはりこれは旧石器であったと確信するようになりました。その後、昭和40年の後半頃に東京で開催されたロシア科学アカデミー協賛の展示会で、期待していた石器がロシアの東北地方から出土した旧石器であるハンド・アックスと非常に良く似ていることを確認し、これまでの期待が正しかったものと信じています。
もし、この推測が正しければ、1万数千年以上も前に、この田上町にも人間の営みがあり、しかも大陸東北地方の文化を持っていた可能性があることになります。過去の花粉や極地方の堆積した氷の分析などから知られている約1万3千年前の世界的な規模の急激な気候変動があった旧石器時代、気温低下から逃れるため、大陸東北地方にいた人類の一部が南下して来た可能性も考えられます。小学校3年生(昭和23年)のとき、同級生の吉野栄一氏が持っていた石器がちょうどその時使っていた社会の教科書「大むかしの人々」に書かれていた、ヨーロッパで発見された旧石器時代の細石器スクレーパーの写真とうりふたつであったことを思い起こすと、さらにこの推測が確かであると信じます。
注;
今年(1999年3月)に入り、かねてから議論のあった縄文式土器の始まりについて新しい結論が出ました。より信頼性のあるとされる別の方法でも校正された14C法によって青森県蟹田町の縄文遺跡から発掘された土器が1万6,500年前に製作された可能性が大きくなり、旧石器時代が無土器文化であったとした従来の考古学の常識が大きく崩れる可能性が出てきました。
また、山形県寒河江市の富山遺跡からは約38万前とされるフランスのテラ・アマタ遺跡の石器と良く似たアリューシャンタイプと呼ばれる打製石器が1995年に大量に発見されました。この事実と前記出来事との関連もある可能性があります。私が子供の時から考古学に興味を持ったのはヨーロッパの原人と同じ石器を使う原人が田上にもいたとする妄想に取りつかれたからです。
宮城県築館町の上高森遺跡と道新十津川町 総進不動坂遺跡から出土した石器が東北旧石器文化研究所副理事長藤村新一氏のねつ造であったことが2000年11月5日に明らかになりました。以前から、これらの石器は一部の専門家から真偽に関して疑問とされいました。私も過去のつたない経験にもとづいても疑問を感じていたものです。この理由は、このような古い石器は出土したとき強く周囲の土が付着しています。私の採集した石器も水をかけて簡単に洗う程度ではこの土を取り除くことができなかったことを良く記憶しています。藤村新一氏の発掘した石器は、いつもはけで付着した土を簡単に取り除くことができ、超音波洗浄器で洗浄したように綺麗になるのは不思議そのものでした。石器の周辺には過去の花粉や獣脂の痕跡が発見される可能性もある現在、このような可能性を求めず、石器の姿だけを重視する発掘方法そのものにも問題があったと考えます。
縄文時代の遺跡
自分で採集した縄文時代の遺跡は上に述べた縄文中期の遺跡だけです。ここで興味があるのは、現在ではこの地域で全く見ることのできないトチの実が発見されたことです。採集した時は古代にしかなかった植物の実かと思ったほどでしたが、鑑定していただいた中村孝三郎長岡博物館館長は即座にトチの実と断定されました。この結論から、縄文中期の林は現在のような杉や松の林ではなく、栃木県の奥日光に見られるようなトチの木の林を含む豊かな原生林があったものと推測されます。国鉄官舎の裏側からは漆を裏面に塗ったと思われる縄文中期の土器片もありました。残念ながら、現在この場所は整地され、かつてあった小さな丘は完全に消失しています。信越本腺を引くための工事の時はたくさんの遺物が出てきたとの話もあります。この地域の歴史を語る過去の証拠の多くがこの地域から消えたのは人類の歴史から考えると、まだ一瞬の手前です。しかし、いくら努力しても元に戻すことができません。
注;
ほかに、自分の記憶からの話になりますが、大沢の鍾乳洞が発見されたとき、この中に縄文の土器が大量にあったと聞いています。鍾乳洞は古代の人骨などの残りやすい希な場所です。本格的な学術調査が行われたことはまだ聞いたことがありません。ぜひ一度専門家の調査の機会を持ってもらいたいと希望しています。最深部の近くにある比較的に広い踊り場は蝙蝠の糞の厚い堆積があり、この下に過去を語る証拠が残されている可能性があるのではないかと期待しています。さらに、川船地区から出土したと言われるサヌカイトで作った磨製石器を中学時代の展覧会で見た記憶があり、この磨製石器は博物館で見るものと同じような縄文時代の多様な種類の石器がありました。
新潟県史資料編1によると、この川船地区の遺跡は川船河遺跡(かわふねがわ、田上町大字川船河字離山)とされ、昭和35年に県の教育委員会で調査された結果、縄文中期から晩期にわたる多量の土器(土笛を含む)と石棒などが発掘されたと記載されています。さらに同書には、小屋敷遺跡(田上町大字田上字古屋敷)からも縄文時代(中期の土器や石器が発掘され、更に中世と思われる井戸などの遺構も発見されたとあります。この遺跡を調査された八百枝歯科院長(加茂市)も私が帰省するタイミングを待っていてくれた懐かしい方の一人です。
注;
弥生時代の遺跡
昭和30年の秋、追越山北側中腹の小さなお稲荷様の前で、高校同級の轡田忠生氏と一緒に、薩摩芋の収穫の終わった畑の畝の脇を、コウモリ傘の骨で作った幼稚な簡易探査器具であたっていると確かな手応えがありました。早速、ここを竹べらで掘ってみると、同じ場所にまとまって数10個の土器片がありました。周辺からは発見されなかったことから見ると、畑仕事の時に邪魔になり、まとめて畑の脇に埋め直したのではないかと推測します。お稲荷様は、この土器を狐に関連づけ、たたりを恐れて建てたものかも知れません。
この土器はどう調べても縄文式土器とは異なるように見えたので、翌年の夏に長岡科学博物館中村孝三郎館長(この後に大阪万博のとき火焔土器で有名になった人)から鑑定してもらった結果、弥生式土器とのことでした。なぜか、この地域では弥生時代の遺跡が比較的に少なく、弥生式土器では公式に記録された最初の発見であったようです。その後、この場所はゴルフ場(現在の湯田上カントリー)になることになりましたが、工事を始める前の昭和49年(1974年)に新潟大学などの調査が入ることになりました。私の発見がゴルフ場の開発業者にとっては大きな迷惑を与えることになって申し訳なく思っております。
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田上町史通史編53ページの記載は、上記のことを指しているものと推測しますが、事実と異なる表現になっています。発掘された位置の表現が異なるだけでなく、「摺鉢状土擴」の意味は土器を採集した当人も理解できません。また土器片は口辺部も含みましたが、とても原型を推測できる状態ではありませんでした。まして、1個体からの土器片と断定することはさらに困難でした。この土器片のうち、数片は長岡科学博物館に展示されていたこともありました。残り全部は小野様に寄贈しました。
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田上町文化財調査報告書 第1輯 、新潟県南蒲原郡田上町中店遺跡調査報告 1976年版 田上町教育委員会/編のあとがきに書かれている「長谷川と坪田」は「長谷川と轡田」の間違いです。「坪田」については「旧石器時代の遺跡」を参照願います。また、上記に書いた通り、当該地区から出土した土器が弥生式土器であることはすでに昭和31年に中村孝三郎館長によって鑑定済みだったものです。小野様は土器の形式から年代を特定できる知識は持ち合わせていませんでした。
この遺跡の発掘調査結果は新潟県史資料編1原始・考古1に中店(なかだな、田上町大字田上五明寺)遺跡として記載されています。これによれば、遺物は天王山式の土器が主で、刷毛目文と沈線文の二つのグループに分けられると書かれています。また、直径70cmあまりの正円形のビット状遺構が発見され、内部からも土器が発見されたとも書かれています(私が以前に採集したための穴でなければ良いが)。この場所は生活跡ではなく、墓跡の様子であると記載されています。しかし、これが壺棺墓とされると、弥生時代としては非常に珍しい埋葬方法になりますが、人骨や副葬品が出ていないとすれば、墓として断定する根拠は乏しいものと思われます。(北九州には弥生前期から甕棺墓がありますが、他ではあまり見られない埋葬方法です)
注;天王山式土器
昭和27年頃田上町(当時は村)川の下入口(現在の田上小学校南西側下)のたんぼの耕地整理作業中に、たんぼの下からかなり大形で形のそろった板が大量に発掘されました。当時の中学校の先生は、この板はその断面から推測すると、恐らく金属器のなかった弥生時代のものではないかと言っていました。この板は道路脇に放置され、何時の間にか朽ちてなくなってしまいました。もう少し詳しく調べたら製作年代だけでなくこの地域の歴史を語る大切な事実が隠されていたようで残念です。
この板は4世紀前半頃の遺跡とされている佐渡の国中平野の中央部にある金井町千種遺跡から発掘された矢板の記録と非常に良く似ていいます。この記録によれば長さ170、幅32.5、厚さ2.8cmとされていて私の見た記憶と良く似ています。ただし、この時代は弥生時代の後期であって、すでに鉄器が使用されていたと考えられるので中学の先生の説とは異なります。しかし、板の断面から何を根拠に金属器を使用していないと断定したのか不明であり、千種遺跡と同じ時代のものである可能性があります。その証拠となる千草式土器など時代の証拠を明かす土器の発掘されることを期待します。
注;田上町史によると、その後の昭和38年(1963年)にこの場所から須恵器と土師器が出土し、丹塗りの盃も出土した記録があります。
古墳時代以降の遺跡
新潟県は日本海側の古墳文化の北限にあります。近傍の(10km余り)西蒲原郡巻町の前方後円墳とされている菖蒲塚古墳があり、ここから出土した銅鏡は古墳時代前期後半の国産鏡ともされています。また、三条市の山王山古墳群などがあり、当時はすでに大和朝廷の影響を受けていたものと考えられます。田上町から数キロ離れた小須戸町矢代田兎谷の入り口近くに泥棒塚と呼ばれる小型の円墳と見られるものがあります。菖蒲塚古墳や山王山古墳群には前方後円墳の他に円墳も発見されているので、この古墳との関連が予想されます。田上町史によると昭和61年(1986年)に田上町田上の上野(うわの)地区城府が入りに近い付近(城府が入りは山田地区)から木村宗文氏によって古墳が発見され、エゾ塚古墳と命名されています。
- エゾ塚と呼ぶ言葉は佐渡では古墳を意味する言葉のようです。エド塚、エン塚とも呼ばれ、この呼び方は柏崎から岩手県まで分布しているようです。エゾは蝦夷と同様の意味で使われたり、未知の人・変わった人の意味も持っているようです。蛇足ですがアイヌ語では「エト」は「鼻」の意味です、エゾ・エドに相当する言葉は見つかりません。
- http://www.geocities.jp/mshomei/gensetu/1998nen/nakahan/nakahan.htmに岩手県水沢市佐倉河字中半入、胆沢町南都田字駒堂にある中半人遺跡・蝦夷塚古墳が紹介されています。蝦夷塚古填と呼ぶ呼び名は江戸時代の文書でもすでに紹介されていて、蝦夷塚の呼び名は古くからあったものと考えます。胆沢は古代にあったと推測されている日高見国の中心地であったとする説もあります。その他、下記のサイトも参考になります 。
http://www.geocities.jp/rekisi_neko/saishouin.html
http://www8.plala.or.jp/sado/sadokoku/kiji/densetu/den_200004.htm
(2007.9.12リンク先の変更と 追加)
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金印にも書かれている「委奴」も漢音で読むと「ヰド」と読めることがわかりました。新潟県ではイとエ、ヰのあいまいなことを考慮すると、エゾ塚は「委奴塚」と言うことになります。「委」は現在でも「イ」と読めます。「奴」を「ド」と読むのは間違いとする説もありますが、その意見の方は「匈奴」を「キョウド」と読むのは間違いだと言っていることと同じになります。最近の私の研究から、金印出土付近には古代に祭祀場所があったことがわかりました。志賀島にある金印発光之碑から約50m南東の位置で、現在は道路と海に挟まれた狭隘な場所です。その正確な位置は世界測地系で表示すると
北緯 33度39分36秒44
東経130度18分03秒08
このポイントは福岡県大野城市下大利2丁目にある老松神社の位置とあわせて壱岐や対馬を含む志賀島周辺にある神社群の位置の多くを決定しているので、上記のように正確にその位置を求めることが可能です。しかし、元々の位置は全国の神社群(個々の神社の向きではありません)が指している古富士の位置(約3000年前に古い富士山が噴火して現在の位置になる以前の位置)と奈良県五条市大塔町の山中にある点の二つの位置によって決定されていて、金印が発掘されたと言われている周囲の環境とは全く無関係に決まっているのです。
理由は不明ですが、古代のある時期に祭祀で使用していた品物や宝物をかつての祭祀場所に埋めた後、その場所を何もなかったように掩蔽した時期があったと思われます。 荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡はその良い例です。金印も私の主張する古代の祭祀場所に埋められていたのです。したがって、志賀島における当該位置付近の環境を見て金印が偽物とする説は完全に否定されることになります。これまで多くの出版物がありますが、新しいものでは2006.11.30に幻冬舎から出版された金印偽造事件、三浦佑之著も金印が捏造とされたとする主な理由を金印発掘ポイント付近の環境に頼っているので、やはり間違った意見になってしまいます。
エゾ塚古墳から約400m北側(田上町山田)にある六所神社の位置も前述したボイントと無関係ではないのです。それどころか、古代の祭祀場所でありながら、現在はそこに何もないことから、古代の埋蔵物があると期待される島根県雲南市木次町にある期待ポイントも六所神社の位置によって決まっている可能性も出てきました。奈良県五条市西阿田町にも同様な期待ポイントがあります。六所神社の位置は、福島県美里町にある伊佐須美神社
の社伝に隠されていた秘密をを解いた結果から得られる、極めて特殊な幾何学的な位置にあります。
まだ誰も信用してくれないことは承知していますが、全国の神社の位置を詳細に検討した結果からは、壱岐や対馬、山陰にある神社の位置は新潟県や福井県にある神社の位置よりも後に決められた可能性が高いのです。古いと俗に言われている紀伊半島の神社の位置までも、新潟県や福井県の神社の位置が定まってから房総の神社の位置が定まり、その後にようやく決定されたと推測しています。
現存する神社の位置が決定された時期は想像以上に古く、縄文中期またはそれ以前であることがわかりました。この理由は、鹿児島や青森の神社を含む全国の神社群が3000年以上前の古富士を指していることと、環状列石を含む東日本の配石遺構を持つ縄文遺跡とその周辺の神社配置、山岳の山頂位置の幾何学的関係から例外なく説明することが可能です。現在の考古学の常識からは全く乖離した結論ですがこの推測は絶対に間違いがないと信じています。
捏造かどうかも明らかでははない文献や発掘物からの推測ではなく、誰がいつ見ても同じに見える神社の位置(当初からその位置に神社があったかどうかは全くわかりません)と現存する遺跡の位置から、確率論から見ても確かな科学的証拠を持って証明が可能です。
さらに信じてもらえないことをついでに書くと、日本全土には神社の位置によって決まるダイナミックでしかもハイアラキーを持つ、きわめて精密な幾何学パターンが隠されていたのです。3000年以上の間、誰も解くことができないどころか、その不思議さにも気づくことのなかった意外で驚愕する秘密が解けてきました。ナスカの地上絵などはその精度と規模から見たらとても比較にもならないほどです。その範囲は日本本土だけでなく、八重山諸島、南大東島、小笠原諸島にまで及んでいるのです。これが、公になった後には日本全土が世界遺産に登録される可能性まであると信じています。
(2007.9.12追加)
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平成14年のエド塚古墳の再測量で、この古墳は円墳1基と方墳1基あるいは前方後円墳1基である可能性も出てきたようです(2004.1.14追加)
また、田上町の歴史として書物(新潟県史通史編1)に記載されているものに、茗荷谷墳墓(田上町と加茂市の境界にある)があります。ここには奈良時代前半(7世紀頃)と見られる須恵器の短頸壺と周辺から100枚あまりの和銅開称が出土したと書かれています。さらに昭和32年田上町山田と上野の境付近の仁王様と呼ばれている仁王堂裏から甕に入った大量(30kg 9,400枚)の唐や元の通貨(621年の関元通宝〜1228年の紹定通宝)が発掘されています。何時かは忘れましたが護摩堂山頂の経塚から経筒と太刀を盗掘してこれを売ろうとした人が逮捕された新聞記事を見た記憶があります。経塚から太刀の出た例は全国的にも珍しく(北蒲原郡安田町横峰二号経塚から短刀が出土している)、これも興味のある事実です。
ほかに、アジサイの育成にも使われたことのある現在若竹旅館の屋敷になっている畑から、昭和20年代に土師器と見られる人骨入り甕棺が出土したことがあります(この甕棺も前記した小野さんに寄贈しました)。この場所に近い一の坂と呼ばれる傾斜地からも畑作業中に人骨や土器片が頻繁に出土しました。また、庵の平(あんのたいら)堂屋敷を始めとして、この地域の山間部から須恵器の破片を見つけることは容易でした。須恵器は奈良時代(710年)の初期から平安時代まで佐渡で大量に作られ本土に運ばれた言い伝いもあり、この頃の須恵器に相当する可能性があります。時代が更に新しいものと考えられる遺跡として、追い越し山の東北部から登り窯(16世紀頃のもの?)が工事中に発見されたこともあります。
最古の民家?
昭和35年頃隣町の小須戸町矢代田兎谷で民家の改築の際、この民家の棟木付近から「天正元年*月*日
大工????猿大工????(?は人名)」と書かれた札(猿は申かも知れません。この意味を知っている人は当時誰もいませんでした)が出てきたとの話を聞き、物好きな私はすぐにこの札を手に入れるように動きました。しかし、すでに手後れで、この札は燃やしてしまったとの事になっていました。この民家の住民が下手に騒がれては改築もままならないと心配し、急遽この札を無い物にしてしまったようでした。この札が民家の棟上げなどの時期を記載した棟札であるとすると、この民家は
1573年(戦乱の安土桃山時代で足利幕府の滅亡した年)に建てられたことになり、現在新潟地方で現存している最も古い民家と言われている長谷川邸(重要文化財新潟県越路町、亨保元年1716年建築)と比較しても、民家としてはきわめて古いものになります。
また、棟札が1699年と確認されている曽谷地方最古の民家、木村家(国の重要文化財)よりも100年以上も古いことになります。この民家は茅葺きの切妻作り、屋根には煙抜きが付いていました。広いいろりの付いた台所とその西側には土間があり、流し場とかまど、風呂が共存していました。台所の西側は土間の作業場と馬の部屋(小屋ではなく部屋)に直結していて、台所から直接馬の様子を見ることができました。ほかに大きいいろり付きの茶の間、3部屋の客間、寝間があつたと記憶しています。茶の間の天井裏は広く、養蚕や糸を紡ぐ道具などが置かれていました。現在この民家は建て替えられ当時の面影は全くありません。
注;
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「さる大工」の意味について
棟札に書かれていた「さる大工」の意味は長い間不明でしたが、ようやく青森地方の方言からヒントが見つかりました。津軽地方では葦が腐って泥炭化したものをサルケと呼ぶようです。これを燃料とて燃した際に出る匂いをサルケ臭いとも言うようです。また,アイヌ語では葦の生えている場所をサルキと呼ぶそうです。ここから「サル」は葦のことを指している事がわかります。
したがって「さる大工」は葦大工となり、葦で葺く屋根の大工となって、今で言えば屋根大工のことを指していたと考えます。この民家の屋根は地元では葦(よし)屋根と呼ばれる葦で葺いた屋根でした。もしも、この仮説が正しいとすると、葦をサルと呼ぶ呼び方はこの地方の古老でも知らないので、この棟札の古さを示す証拠の一つと考えます。
延亨元年12月の田上村・後藤新田・塚野新田・三か村郷帳に「猿毛」の地名がすでにあり、その年貢高が60石2斗・・・の記載があります。この猿毛も泥炭から来た地名の可能性があり、泥炭をサルケと呼んだ時期の名残と考えます。この猿毛は現在加茂市にある猿毛岳のふもとにある猿毛地域と推測されます。このような山間部は葦原とは無関係のように見えますが、恐らく過去の葦原が泥炭化し、それが土地の隆起によって泥炭として出土した例があったものと考えます。
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アイヌ語でもサルは葦(アシ)のことを指していることがわかりましたが、紀元前3000年前のシュメールでも「サル」は同じ葦(アシ)の意味を持っていました。さらに、「サル」の意味は「文字」の意味も持っていたようです。古代のメソポタミアでは切った葦の茎を粘土板に押しつけるようにして、楔形文字文字を刻んでいました。恐らく、この理由から、「サル」が「書く」にもなったものと考えます。このように「サル」は古代シュメールの言葉がそのまま残っていたものと考えます。古代では建築材料としてだけでなく文字まで刻んだ葦はメンタイ(スケトウダラ)と同じように多くの国で共通語として使われていたに違いありません。ほとんどの方は偶然の一致に過ぎないとお笑いになると考えています。しかし、古代の日本にも古代メソポタミア文明に相当する文明があったことが近々明らかになります。 (2007.9.18) 追加
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野島出版発行の「新潟県の地名」に中世では大工の意味が現在とは違っていて、現在の大工を番匠と呼んでいたとの記載もありますが、永禄9年(1564年)の魚沼神社文書に現在と同じ意味の大工が記載されています。また、現在の長岡市日赤町から春日町にかけて大工町と呼ばれていた場所がありましたが、この場所は延宝年間(1673年〜1681年)に書かれた長岡町割絵図(安善寺文書)にもすでに大工町となっています。更に、享保7年(1722年)年の長岡城之図付札(願成寺蔵)現在の大工と同じ意味に取れる「大工」が 93名いた事が記載されています。(1999.7.17日追加)
豪農の館
田上町には田巻家(原田巻家)、吉沢家の豪農が戦前まで現存していました。地元では旦那様と呼ばれ、どちらも立派な長い塀で囲まれた膨大な広さの屋敷を持っていました。戦後は農地解放などで寂れて行くことになります。吉沢家は塀を除くと建物の原形もありませんが田巻家はまだその面影を保っています。このうち、田巻家離れ座敷として使用されていた椿寿荘は全国各地の銘木を使って建てられているとの事で、釘を一本も使わない高度の技法で作られています。
この建物は大正7年に完成したもので、当時の宮大工の日当が35銭の時期に約8万円(日当換算で約23万日分に相当)の費用をかけたと言われています。
注;
椿寿荘(旧原田巻家)
田上町文化財のしおりより
掲載許可・前田上町文化財調査審議委員長中野粂男様
古代の粟生田保は田上にあった?
古代の荘園と保の存在として蒲原地方では五十嵐保(下田村)、大槻荘(三条市)、粟生田保(?)、青海荘(加茂市)、石河荘(加茂市)、大面保(栄町から見付市北部)、出雲田荘(中之島町)、金津保(新津市から小須戸町)、弥彦荘(弥彦村から巻町)、福雄荘(分水町)、吉田保(吉田町)、蒲原津(信濃川河口)、菅名荘(五泉市から村松町)、長井保(村松町)などが知られています。この中で、国衙領であったとされる粟生田保は現在の南蒲原地方にあったことだけが歴史書に記載され(一部には五十嵐川流域との推測もあります)ているだけで、未だに正確な地域は謎となっています。
現在、「粟生田」は苗字や埼玉県坂戸市に地名として残り「あおうだ」と読みますが、古代では「ァハァニュウダ」と発音していたのではないかと考えます。田上町には古くから開けた「羽生田」(はにゅうだ)と呼ぶ地名があります。ここで、「粟」の字は歴史的カナ使いでは「アハ」と読みます。古語では「ハ」は「ハァ」と発音されていたこともあり、「アハァ」の最初の「ア」は発音し難いので、これが弱まって「ァハァ」となり、最後には頭の「ァ」が取れて「ハァ」となった説です。したがって、この読み方をすると「粟生田」は「ハァニュウダ」と読むことができ、羽生田の読みと一致します。もし、この説が正しいとすると、国衙領(こくがりょう)とは国司の統治下にあった土地なので、この地域は平安時代には、同じ国衙領であったとされる五十嵐保、大崎保などと並んで、すでに国の土地になっていたものと推定することができます。
延喜式人名帳では土生田(ツチフタ)神社があり、これが羽生田神社に比定できるとの説もあります。古代の漢字は当て字であり、羽丹生田、埴生田、羽生堂などの書き方もあり、漢字が本当の意味を持つ場合と、全く関係ない漢字をあてることもあります。この地域は赤土が多く産出し、最近まで瓦の製造も盛んでした。したがって、埴生田や土生田の書き方はそれなりに意味を持っていた可能性もあります。 「粟生田」が「羽生田」に変化した時期と理由を今のところ説明することはできませんが、これまで謎とされた粟生田保の候補地として書かせていただきました。何しろ、全くのど素人の説で当たっているかどうかは判りません。ここで、皆さんのご意見をお聞きしたいと希望しています。
注;延喜式神名帖では土生田神社は羽生田村にあったと書かれています。参照 「日本古典全集」
注; 粟生田保に関する調査経過
日本地理志料では (志料は資料の間違いではない)
・日置郷を小戸・朝日・金津の現新津市、矢代田・小須戸の現中蒲原郡小須戸町
・桜井郷は弥彦・観音寺の現西蒲原郡弥彦村、石瀬・間瀬・岩室の現西蒲原郡岩室村、角田浜の同巻町、松野尾・赤塚の現新潟市
・勇礼郷は井栗・大崎の現三条市、北潟・大面・小滝の現南蒲原郡栄町、福岡・院内・森町・五百川現同下田村
・青海郷は近江・長嶺・出来島・女池・姥ケ山・神道寺の現新潟市、早通・茅野山・現中蒲原郡亀田町
・小伏郷は下条・狭口・赤谷・黒水・宮寄上の現加茂市、羽生田・田上・坂田の現田上町
としている
新潟県の珍しいもの、新潟の人はごく当たり前ですが新潟県を出ると知らない人の多いものです。
エゴ
エゴまたはイゴと言う食べ物です。もともと、新潟の方言は「い」と「え」が区別されていないので、どちらでも良いのです。この食べ物はエゴ海苔(紅藻類のイギスか?)と言う海草を煮込み、裏ごしをしてから、寒天を作ると同じように形に入れて固めたものです。色は青褐色の寒天状で主に酢味噌を付けて食べます。新潟県では全域で食べられていて法事やお祭りには欠かせない料理でした。しかし、なぜか周辺の県である富山、長野、山形などでもエゴを食べる習慣を聞いたことがありません。新潟県から遠い北九州の博多では「おきゅうと」と呼ばれるエゴに似た食べ物があります。博多では醤油とかつお節で食べる違いがありますが、同じもののようです(エゴ海苔だけでなく、寒天が混じっている違いがあるようです)。北九州でもおきゅうとを食べる場所は博多周辺だけで、少し離れると知らない人もいるほど、局在した場所でしか食べない珍しい食べ物です。千葉でも「けーそー羊羹」と呼ばれるものがあるとの話を聞きました。新潟の方言と同じように「海草」がケーソーと訛っているのも面白い話です。残念ながらこれはまだ食べたことがありません。
エゴ(酢味噌がかけてある)
塩鯨
これも新潟県特有の食べ物です。鯨の皮の付いた部分を塩漬にしたもので、表面の皮の部分は黒色でつるつるしています。この皮の下は脂肪と肉になっています。これを短冊状に切って味噌汁などに入れて食べます。私が田舎にいた頃は夏になるとほとんど毎日この味噌汁を飲んでいました。最近は捕鯨が禁止になって鯨そのものが珍しくなったのですが、なぜかまだ売られているものを見たことがあります。塩鯨を食べる習慣もエゴと同じように周辺の県だけでなく、どこでも聞いたことがありません。この習慣も新潟県に局在した理由があると思いますが知っている人に会ったことがありません。また、エゴと違って、北九州ではポピュラーな食べ物である晒し鯨は新潟にはありません。
その後の調査では
江戸の川柳に
大名も切り売りを買う塩鯨
としたものがあったり
水無月や鯛はあれども塩鯨
とした松尾芭蕉の元禄5年 (1692年芭蕉49歳)の俳句が残っているところから見るとかつては、江戸でも食べられていたようですが、現在はその習慣がなくなっているようにも見えます。また、http://www.obako.or.jp/senboku/taberu/ryouri/kuzira.htmには「塩くじらのなすみずかやき」として茄子と塩鯨の料理が秋田県仙北郡仙北町の郷土料理で紹介されている事を見ると、これは田舎で食べていた塩鯨の味噌汁と同じものではないかと考えます。
以下2002.8.10追加
平成14年の夏に塩鯨を妻の里のスーパーで見つけました。かつて食べていたものと同じ塩鯨です。「南氷洋産ミンク鯨、本製品は国際捕鯨条約に基づいて(財)日本鯨類研究所が実施した、汚染のないミンク鯨捕獲調査の副産物です」と書いてありました。100gあたり1080円と、とても高価でした。早速、買ってナスと一緒に味噌汁にしました。味も懐かしく、おいしい味でした。江戸時代の捕鯨方法では捕獲されるほとんどの鯨はマッコウ鯨だったようです。(他の鯨は死ぬと沈んでしまうので陸揚が困難だった)。
スーパーで見つけた塩鯨
つぶし豆(打ち豆)
大豆を石臼などの硬い面において、木鎚でたたいてつぶしたもの。これを煮物などに入れて食べます。手軽に料理の材料として使うことができ、消化も良く、栄養も期待されるせいか最近は東京でも手に入るようになりましたが、この食べ方も新潟県に局在した食べ方でした。
菊の花
菊の花を食べる習慣ですが、黄色い花はテレビなどの影響もあって日本中で食べるようになりました。しかし、以前は新潟以外の場所では山形県を除いて菊の花を食べる習慣はほとんどなかったようです。黄色の花は色が奇麗ですが味は劣ります。少し大形の薄い赤紫の花が味が良く、地元ではこちらだけ食べます。「かきのもと」呼ぶ呼び名が商品名になっていますが、見た目よりも旨いので「思いのほか」とか「もってのほか」などの呼び名もあります。花のガクの部分を除いて花びらだけにしてから熱湯でゆでます。ゆでる時に食酢をわずか入れると色が鮮明になります。また、ゆですぎないのがコツです。茹で上がったものを醤油で食べますが、醤油では少し味が濃すぎるので、ソバだしなどを適当な濃さに調整すると更においしくなります。ゆで上がったものをラップに包んで冷凍すると長期保存も可能です。解けかかったシャーベット状のものは焼酎に良く合います。
摘み取った直後の「 かきのもと」 冷凍保存10ケ月を戻したもの
あんこ餅
正月に食べる餅の食べ方です。方形に切った餅を鍋で煮ます。煮た時に、鍋の底に付着しないように、麻などで編んだ網目を敷きます。煮た餅を椀に盛り、この上に餅が見えなくなるほど小豆あんをかけて食べます。東京のおしることは違ったものですが、なぜか一緒にされてしまいます。最近は臼でつく餅が少なくなり機械で作った餅が多くなっていますが、この餅は煮ると形が崩れ易く、この食べ方には適しません。
あぜ豆
この豆の名前も他県の人の知らない言葉です。枝豆のことですが、かつては田んぼの畦に植えられていたのでこのように呼びます。耕地整理の行われないたんぼでは、畦の面積も多く大量に収穫することができました。名前の違いだけなら日本中ポピュラーになったこの豆を今更、書くことも無いと言われそうです。しかし、ここでは大量の枝豆を食べます。都会の飲食店で高いお金でまずい枝豆を食べている人には想像もできない量の枝豆を食べます。消防団などの宴会では一人が1笊(どんぶり三杯位)も食べるのが普通です。もちろん、ここの枝豆の味は最高です。山形県の駄々茶豆も有名ですが、新潟県の枝豆も食べてもらいたいものです。枝豆も新鮮でないと本当の味が出ません、是非現地でこの味をたんのうすることを希望します。蛇足ですが、世界最大の大豆生産量を誇る米国では、この枝豆の食べかたに適した豆はないそうです。知り合いの米国人で日本の一番おいしい食べ物は枝豆だと断言している人がいます。
珍しい言葉
タコかイカか?。あんなに頭の重いタコが空に上がる訳がない、糸で空に上げるものはイカが本当。
まず、新潟県以外の人では「まさか?」と言って信じない言葉で「イカ」があります。あの糸を付けて空に上げる凧を「タコ」と言わず「イカ(紙鳶)」と呼びました。新潟では白根や今町のイカ合戦が有名です。白根の「大イカ」は戦後に駐留した米軍も珍しいと見えて、映画として撮影をしている様子も見られました。おそらく、これも「イカ合戦」として当時の米国に紹介されたたのではないかと推測します。一般に呼ばれている太い丈夫な「凧糸」も「イカ糸」と呼ばれていました。ただし、「イカ」と呼ばれる六角凧や4角凧と異なり、「タコ」と呼ぶ唯一のものもありました。これは鉢巻きをした蛸の絵が書かれ、8本の足も付いていて形も蛸そのものでしたが、これは幼児専用のものです。最近はテレビの影響もあり、この珍しい呼び名もあまり使われなくなって来ています。タコは関東地方の方言が一般化したようで、本来は田舎で使われていた言葉が本当だったようです。
田上でコオロギは「ギーチョン」、キリギリスは「コロコロ」と鳴く
田上町付近の方言では、あの黒っぼい色をして「コロコロ」と秋に鳴く昆虫を「キリギリス」、緑色の羽根に褐色の斑点があり、比較的に大形で「ギーチョン」と夏に鳴く昆虫を「コオロギ」と呼びました。これは現在の一般的な呼び名では完全に逆さです。
百人一首の91番にある後京極摂政前太政大臣(1169年〜1206年)の歌で(新古今和歌集巻五、秋下、528詩書)
きりぎりす 鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む
とした歌があります、この「きりぎりす」は夏に鳴く「キリギリス」ではなく、明らかに秋にコロコロと鳴く現在の「コオロギ」の事を指しています。このように古語では今の「コオロギ」のことを「キリギリス」と呼んでいたことになります。古文ではこれが当たり前の呼び方だったわけで、この地方では古い言葉がそのまま残っていたことになります。これも古語と同じ呼び方である、父親を「トト」母親を「カカ」と呼ぶ呼び方もテレビが普及するまで普通に使われていました。
はざ木(稲架木)
はんの木(棒の木)、カバノキ科ハシノキ属の落葉高木です。この木は元来湿地に自生する木で、かつて湿地の多かった新潟の地に適した植物です。この木は強く選定しても枯れない特徴もあり、稲を干すためのはぜの支柱にするのでこの名があります。かつては、この木が直線状に並んで立っている様子が越後平野の田園風景を現す典型となっていました。しかし、稲刈りの自動化や籾の乾燥機などが普及するにつれて、はざ木の価値もなくなり、現在はこの風景を見つけるのが難しいほどになっています。
注;
東京では名詞が活用する?
このページの性格として具体的な言葉は書くことができませんが。田上町付近の隠語は名詞と動詞がはっきり区別されています。東京では名詞が活用するので驚きました。言い換えれば東京では身体の部分を指す名詞が動詞と共通なのです。最近は動詞の方は英語読みが普通になり、こちらは全国共通なので田舎から東京に出ても驚くことはありません。
よその人が驚く言葉
「い」と「え」があいまいなことはすでに書きました。古い人は発音だけでなく、文章でも同じです。さらに、よその人から珍しがられることは、若い女性でも自分のことを「おれ」と呼ぶことです。また、自動車が動くことを「自動車がずる」などの言い方も全く理解されません。感嘆した時に出る「アキャー」も出したとたんに笑われます。それから、新潟全域の特徴かどうか調べていませんが「声」と「音」の区別があいまいな人が多いようです。
田上町は鼻濁音の境界地(鼻音がないのは1,400年も前に中央政権に恭順した結果か?)
注;神社位置の研究からは現存する神社の位置は縄文時代に決定され、北海道から沖縄まで同じ規則で配置されていることがわかりました
神社はなぜそこにあるか?
210.11.9更新
田上町は言語で見ると、鼻濁音地域と非鼻濁音地域との境界領域にあります。一般に鼻濁音と言われているのは、NHKがアナウンサーの指導で行っているような「がぎぐげご」に鼻音を入れることを指します。ここでは「が」行に続く「さたは」行の濁音「ざだば」行の鼻濁音を含み、さらに濁音を含まない言葉までその直前にnまたはmを入れることを指します。したがって、ここでは鼻濁音と呼ぶよりも鼻音と呼んだ方が適切と考えます。この定義から行くと、東北地方の方言は鼻音を用いるのが特徴です。室町時代頃までの日本の古語は同じように鼻音を使っていて、東北弁の鼻音の特徴は日本の古語がそのまま残ったとする説があります。
注;マリアナ諸島に住んでいたチャモロ人もカ行は鼻濁音に近かったらしい、チャモロ人の人口は1662年には10万人いたがスペイン人が入ってから激減し1790年には1360人に激減している、現在は純粋なチャモロ人は存在しないとされている。神社の配置から見ると古代日本人とチャモロ人は無縁ではなさそうである。)
参照;
神社はなぜそこにあるか? 2010.10.10注を追加
この説は、いわゆる蝦夷人とはどんな言葉を話していたかを推測するヒントになるだけでなく、日本語の成立そのものを考える材料にもなるのではないかと考えます。文字の出現する直前は鼻音を含んでいたと思われるヤマト言葉は、すでに東北地方を含む日本全国に広まっていて、アイヌ語やツングース語その他の言語などは少数派であったものと推測します。
仏教などの伝来してきたおよそ1500年前に、急速に入ってきた漢字がヤマト言葉の中に取り入れられるにしたがって鼻音も廃れ、その後1000年くらいの期間で鼻音が残る地域とそうでない地域が生まれたものと考えます。言わば、中央政権に長い期間対抗した東北地域は漢字文化に同化することも遅かったようです。九州地方のほぼ全域、新潟県の阿賀野川以北から東北地方、南紀から石川県、山陰、徳島県などに残っていたサシスセソをシャシェシュシェショと発音することも、室町時代以前の中央政権域で使われていた発音が残っていると言われています。新潟県の鼻音の地域とサ行を上記のように古い発音でする地域もほぼ一致しています。
分化元年(645年)の大化の改新以来、大和朝廷は蝦夷征伐を開始、早くも文化3年(648年)には戦略上の重要拠点として新潟県の沼垂に渟足柵を作り、柵戸を置いています。しかし、その後日本が統一するまで700年余りもかかることになります。信濃川と比較すると流れも速く、上流も険しい場所が多く、渡るのが困難だった阿賀野川は戦略上は大変な障害となったのではないかと考えます。
阿賀野川の上流は、下流域と違って、川筋も早くから安定し、洪水で氾濫することも少なく、荘園の時代は隣の矢代田は金津保として、菅沢は菅名庄の開拓地として古くから開けていたと考えられます。上杉謙信の時代には上杉方に組するようになったようですが、それ以前は阿賀野川近辺を境として常に戦う混乱の時代が続いていたものと考えます。鼻音を使う地域とそうでない地域はこのような地理的要素と歴史的な背景が合わさった結果によるものと推測します。この時代、田上町の山辺を伝って縦断する旧道は、古代から記録の残っている渡しに頼る日本海側の道路とは別に、陸路としては戦略上も重要な道路であったと推測します。今の県道ができる昭和10年代までは、この山辺の道路は現在の県道と同じように重要な道路として使われていました。
注;
前置きが長くなりましたが、田上町の方言には「ん」を除くと鼻音が全くありません、北東方向で隣接する矢代田になると、突然鼻音の地域に入り、北に行くほどこの傾向は大きくなり、阿賀野川を越えると本格的に鼻音になります。現在はテレビの影響などもあり、この急激な変化を捉えることは容易ではありません。しかし、私が幼少の頃はこの強烈な違いが実に不思議でなりませんでした。矢代田よりもわずか北東の新津になると、駅構内の磐越西線方面への案内で「会津、若松、郡山方面は乗り換えです」としたアナウンスは濁音がほとんどないにもかかわらず、すべての音が鼻から出ているような錯覚を覚えたことを今でも思い出します。また、わかりやすい例を紹介すると、フランス語である帽子(chapeau)は田上では「シャッポ」と呼びますが隣の矢代田では鼻音が入り「シャンポ」になります。これは外来語が普及する時、その地域で話されていた発音の影響を強く受ける具体的な例と考えます。
1999.8.4更新
旧高旧領取調帳に見られる田上町とその周辺
江戸後期に諸藩の石高を書き上げた『旧高旧領取調帳』には越後国新発田県蒲原郡大沢新田、羽生田村、田上村などが書かれていて桑名藩預所だったようです。(後藤や横場の新田は新発田藩領)
田上町の地名が記録に登場するのは先に書いた亨徳3年(1423年)4月28日付けの中条秀叟(房資)記録(三浦和田中条文書)の中に「菅名・田上原之合戦」とあります。その後慶長3年(1598年)頃の御領内高付帳には「田上村・川ノ下村・大島村」423石6升とあり、慶長17年の御蔵納同払方帳には「田上村・大面町・羽生堂村」で炉役米共517石3斗余り、田上水入の年貢5石、同村出分10石、「上之郷うり山の銀」の割り当てに「弐百目田上山分」ともあります。
また正保国絵図の村高は700石余りとあり、延宝4年(1676年)鍛治役之覚書溝口家文書)では鍛治屋が3人いて、役銀17目を納めている記録もあります。
元禄3年(1690年)の護摩堂山由緒(東京大学資料編纂所蔵、謄写本 2041.41-2)によれば、元和元年(1681年)湯川村と沢海藩領橋田村・菅沢村(現五泉市)で山論が起き、元禄4年(1691年)に幕府の許可によりようやく境が定められた記録もあります。この記録によると、当時は山間部の高所まで畑として開墾されていた様子が見られます。寛政元年(1793年)には塚野新田などを除く現在の田上町に相当する大半が幕府領になったようです。
寛政5年(1793)年の加茂組明細帳(古川渙一郎氏蔵)田方100町8反余・畑方17町7反余、家数329・人数1,406人とあります。弘化4年(1847年)には大半が桑名藩領となって明治維新を迎えた直後の記録が下記の旧高旧領取調帳となります。この後明治22年(1889)年の町村制施行により、田上村・羽生田村・保明村・横場村が成立します。明治34年にはこの4村が合併し田上村となり、昭和48年(1973年)に町制を施行し現在に至っています。(1999.7.17日追加)
旧村名 | 旧領名 | 旧県名 | 明治元年旧高
旧領取調帳 | 1889年市町
村制施行 | 1953年町村
合併促進法施行 | 現在 | その他 |
矢立新田 | 桑名藩領所 | 新発田県 |
| 加茂町 | 加茂町 | 加茂市 | |
上条村 | 桑名藩領所 | 新発田県 |
| 加茂町 | 加茂町 | 加茂市 | |
加茂町 | 桑名藩領所 | 新発田県 |
| 加茂町 | 加茂町 | 加茂市 | |
狭口村 | 桑名藩領所 | 新発田県 |
| 狭口村 | 加茂町 | 加茂市 | |
猿毛村 | 桑名藩領所 | 新発田県 |
| 狭口村 | 加茂町 | 加茂市 | |
赤谷新田 | 桑名藩領所 | 新発田県 |
| 加茂町 | 加茂町 | 加茂市 | |
坂田村 | 桑名藩領所 | 新発田県 |
| 羽生田村 | 田上村 | 田上町 | |
坂田村之内 | 桑名藩領所 | 新発田県 |
| 羽生田村 | 田上村 | 田上町 | |
大左衛門新田 | 桑名藩領所 | 新発田県 |
| 羽生田村 | 田上村 | 田上町 | |
茗荷谷新田 | 桑名藩領所 | 新発田県 |
| 羽生田村 | 田上村 | 田上町 | |
石田新田 | 桑名藩領所 | 新発田県 |
| 羽生田村 | 田上村 | 田上町 | |
川舟河村 | 桑名藩領所 | 新発田県 |
| 羽生田村 | 田上村 | 田上町 | |
千苅新田 | 桑名藩領所 | 新発田県 |
| 羽生田村 | 田上村 | 田上町 | |
原ケ崎新田 | 桑名藩領所 | 新発田県 |
| 田上村 | 田上村 | 田上町 | |
保明新田 | 桑名藩領所 | 新発田県 |
| 田上村 | 田上村 | 田上町 | |
湯川村 | 桑名藩領所 | 新発田県 |
| 田上村 | 田上村 | 田上町 | |
吉田新田 | 桑名藩領所 | 新発田県 |
| 羽生田村 | 田上村 | 田上町 | |
大沢新田 | 桑名藩領所 | 新発田県 |
| 羽生田村 | 田上村 | 田上町 | |
羽生田村 | 桑名藩領所 | 新発田県 |
| 羽生田村 | 田上村 | 田上町 | |
田上村 | 桑名藩領所 | 新発田県 |
| 田上村 | 田上村 | 田上町 | |
塚野新田 | 新発田藩領分 | 新発田県 |
| 田上村 | 田上村 | 田上町 | |
後藤新田 | 新発田藩領分 | 新発田県 |
| 田上村 | 田上村 | 田上町 | |
横場新田 | 新発田藩領分 | 新発田県 |
| 横場村 | 田上村 | 田上町 | |
曾根新田 | 新発田藩領分 | 新発田県 |
| 横場村 | 田上村 | 田上町 | |
大沢村 | 村松藩村領分 | 新発田県 |
| 橋田村 | 橋田村 | 五泉市 | |
山崎村 | 村松藩村領分 | 新発田県 |
| 橋田村 | 橋田村 | 五泉市 | |
小熊村 | 村松藩村領分 | 新発田県 |
| 橋田村 | 橋田村 | 五泉市 | |
丸田村 | 村松藩村領分 | 新発田県 |
| 橋田村 | 橋田村 | 五泉市 | |
石倉村 | 村松藩村領分 | 新発田県 |
| 橋田村 | 橋田村 | 五泉市 | |
橋田村 | 村松藩村領分 | 新発田県 |
| 橋田村 | 橋田村 | 五泉市 | |
四ツ谷村 | 村松藩村領分 | 新発田県 |
| 橋田村 | 橋田村 | 五泉市 | |
尻上村 | 村松藩村領分 | 新発田県 |
| 橋田村 | 橋田村 | 五泉市 | |
菅沢村 | 村松藩村領分 | 新発田県 |
| 橋田村 | 橋田村 | 五泉市 | |
町屋村 | 村松藩村領分 | 新発田県 | 867.228 | 菅名村 | 橋田村 | 五泉市 | 一部村松 |
米津新村 | 村松藩村領分 | 新発田県 | 153.253 | 菅名村 | 橋田村 | 五泉市 | 一部村松 |
今泉村 | 村松藩村領分 | 新発田県 | 1,239.12 | 菅名村 | 橋田村 | 五泉市 | 一部村松 |
木越村 | 村松藩村領分 | 新発田県 | 2,538.17 | 菅名村 | 橋田村 | 五泉市 | 一部村松 |
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作者からのお願い
故郷を離れてすでに40余年、故郷よりも他で過ごした年数が多いにも関わらず、歳を取ると故郷が懐かしくなります。たまに帰省すると、田舎は大きく変化しています。このホームページを作ることになったのも、このような状況下でのノスタルジアが発端です。このホームページをご覧になってのご感想がありましたら是非下記まで連絡をお願いいたします。作成を急に思い立ったので画像が不足しています。徐々に更新と追加を行う予定です。このページにふさわしい資料や画像をお持ちの方がおりましたら是非とも、その資料のご提供をお願いいたします。また、このページに対するリンクは自由です(ただし、無断転載は禁止です)。さらに、田上にゆかりのある方へのホームページのリンクも増やしたいと希望しております。連絡をお待ちしております。
(作者の出身地での経歴 : 田上町田上大字山田に生まれる;田上小学校、田上中学校、加茂高等学校卒業、東京の大学に進学後そのまま東京に在住)
連絡先
FAX: 042-795-5652
掲示板を増設いたしました、掲示板ではメールを使わずに自由に発言が可能です。本Webページにご意見がありましたら是非書きこみをお願いいたします。書込みは公開されます。