更新2000.1.4

護摩堂山

 


護摩堂山頂の展望 (光っている川は信濃川)1998.6.28

 標高268.3m、山頂からは越後平野を一望にして見ることができ、条件が良いときは、佐渡や粟島まで展望できます。頂上付近は城跡があり、応徳年間(平安時代、西暦1080年代)羽生田周防守吉豊の築城。その後奥州安倍貞任(さだとう)の残党黒鳥兵衛に攻められて落城した。元徳2年(1330年)源義光の子平賀盛義が再度築城、平賀京之進盛政、十坂対馬守、宮嶋将監らの居城を経て南北朝時代の末から室町時代の天正年間まで三条城将山吉の持城となり、天正6年(1578年)甘粕景継(後の長重)が三条城将となり慶長3年まで城主であったと案内板に書かれていますが史実とは多少異なる部分もあるようです。



頂上付近の案内板


 注; 

  山頂付近はかつての城跡と見られる幾重にもわたる平坦な土地があり、9合目付近には本丸、二の丸、三の丸跡と見られる場所や二重の空壕の跡もあります。この城は荘園時代に菅名庄の開拓地として護摩堂山の南東側の山麓に開発された菅沢を守る砦から始まり、上杉謙信の養子景勝の代に、先の甘糟景継(上田衆出身上杉家家臣、登坂藤右衛門広信)が神戸城(現在五泉市村松町、当時は会津の芦名勢の侵入を防ぐ重要な役目もあったようです)と兼ねた城主となり、山吉豊守(1541〜1577)の弟景長の守る木場城(西蒲原黒崎町)と共に、造反した新発田重家(????〜1587)に対抗するための城として重視されました。

  秀吉の天下掌握が進んだ天正12年、上杉景勝が秀吉に景勝の甥である上条宣順の三男弥五郎義真を人質として送った後も、会津芦名氏と同盟していた新発田重家との抗争は続き、この守りを固める目的として護摩堂城は重要な役目を継続することになります。その後、新発田重家は上杉景勝(1555〜1623)との戦いで天正15年(1587)10月28日新発田城本丸にて討死しました。護摩堂城主であった甘糟景継は新発田重家との戦では護摩堂城を守った功績なども買われ、1589年には更に北の出羽庄内の東禅寺城代となった後、天正19年に酒田城主(山形県酒田市)となって酒田に移駐しています。

  山の北東から南方向は急峻な崖があり、自然の要塞としての要素も備えています。 不思議なことに、山頂近くには今でも清水が沸いています。近所にはこれより高い山がなく、しかも戦後周辺の大きい木が完全に伐採されたにもかかわらず、この湧き水の量は変化せず、日照りの時も湧き水は絶えることがありませんでした。しかし、戦乱の時代は安定に湧く湧き水も、戦で増加した人口の需要を満たすことができず。黒鳥兵衛に攻められ、兵糧(水)責めに遭ったとき、敵に水が不足していることを悟られないように、山頂から水に模して米を撒き滝に見せたが、密告によってこれが敵に明かされ落城の原因になったと言い伝えられています。この戦いの様子は昭和の初期に物語として講談社から出版されたこともあります。今となっては、これが事実かどうかは推測の域を出ませんが、山頂付近が人為的に整備されるまでは、焼き米と呼ばれる炭化した米を容易に見つけることができました。 炭化米は14C炭素による年代測定が可能であり、ぜひこの測定をして見たいものです。

  護摩堂と呼ぶ名称の由来は、山岳信仰の盛んな古い時代に、山伏がここで護摩を焚いたとか、弘法大師が護摩を焚いたとの説もあります。言い伝えによると、この時代は護摩堂から数キロ離れた、堂屋敷(田上町川の下)と呼ばれる場所を本拠地として、付近の山には72坊もの寺院があり、山岳信仰の要所であったとのことです。この付近には、一の滝や手取りが淵、朝滝などの修験道に必需の滝がなどの滝や、不動岩と呼ばれる場所もあります。山岳信仰として知られている山形県の羽黒山と関係しているとも言い伝えられています。事実として、建てた理由が不明な、地元では化け石と呼ばれていた羽黒山と書かれた大きな石碑が護摩堂山のふもとに建も立っていました。周辺の山の頂上付近からは、どこを掘っても須恵器の破片を容易に見つけることができます。須恵器と山岳信仰を結び付けるには少し無理があるとした意見もありますが、比較的にこの地方では発掘されにくい種類の土器がこの地域に限って容易に得られることは、この言い伝えに何か真実が隠されているようで興味を引きます。
 護摩堂山頂付近はかつて大きな領地争いがあり、このときの裁判の記録が書かれた古文書が護摩堂山のふもとにある菅沢の民家に残っていました。古文書学の大家であった元宮内庁侍従宮崎氏も大変貴重な資料であるとの折り紙付きの古文書でした。

   注; 




   (寛治20年は間違いではないか?寛治は1087年までしかないので、寛治20年は天仁元年(1108年)の間違いと思われる)








護摩堂城落城はいつか?
      1999.9.9日更新
 
 護摩堂城落城の日はちょうど9月9日の重陽の日だったとのことです。重陽の節句は西暦600年の後半に日本に伝わったと言われていて、陰陽の「陽」にあたる数の最大数である9が連続することから来たようです。この日は一般的には栗飯で祝うのが普通のようでしたが、田上は餅をついてこの日を祝ったようでした。昔、ちょうどこの重陽の祭りの準備として、せいろで餅米を蒸かし餅をつく準備をしている最中に護摩堂城が落ちてしまったとの事です。護摩堂の近くの山田地区はこの情報が早く届き、まだ餅をつく前で餅米を蒸かしたばかりの状態でした。これより少し離れた上野地区は落城の知らせが遅れてしまい、すでに餅をついてしまっていたそうです。 以来、9月9日の重陽の節句には、山田地区はおこわ(赤飯)、上野地区は餅をつく事になったとの事です。

 この習慣は昭和の30年代まで残っていたのですが、今はすでにこの習慣がなくなったらしく、この情報を得るのが困難な状況でした。最初は5月8日の護摩堂祭りの日とした知らせもあり、この日を落城の日と仮定して推論をすすめましたが、その後この日にちは間違いであることがわかりました。前回の推論を却下して新たに書き直すことにいたしました。ここで、皆様のご意見も頂けたら幸いです。

 護摩堂城が落城した日の9月9日の朝をキーワードとして護摩堂城が関係したと考えられる過去の戦いの記録と照合して、護摩堂山の落城の日を推定することを試みました。また、餅米を蒸かすのは早朝なので、護摩堂城が落ちたのは早朝ではないかと仮定します。

1.黒鳥兵衛との戦い
 黒鳥兵衛についてはたくさんの伝承や記録があるようです。しかし、新潟県郷土古文献新潟市郷土研究会第2集によると底本は笹川勇吉氏所蔵の明治十丁丑年5月越後国新潟官下本所村後藤伝作「七拾八才写之」4巻であり、この記載を元にして、宝暦7年(1049年)以降に越後村名盡が作られ、さらに越後黒鳥根本記が越後村名尽の異本として作られたと書かれています。
この原本には事件の時代を表す記載が少なく、かりに史実を元に創作されたものとしても、ここから護摩堂の落城の月を推定するのは困難でした。ここに書かれている年月日は少なく、下記の記載しかありません。
 名盡第1巻では、応徳元年(1084)年4月上旬奥州阿部の長巨二平詮任并従弟真鳥次郎政任、舎弟亀田三次郎光任達数百人が越後に乱入し神社仏閣を荒らしたり、人妻を含む女性を略奪するなどあらん限りの狼藉を働いたが、黒鳥兵衛は身の丈8尺余の巨漢、無敵の強さで刃向かう者もいないために越後中が恐怖にさらされてしまったと書かれています。この巻では金菅澤城主羽生田周防守豊之が討たれるのですが、この月日は記載されていません。名盡2巻では永長元丙子年(1096)3月17日加茂次郎綱義が黒鳥兵衛を退治するために寺泊に陣を張った事がかかれています。4巻では承徳元年(1097)丁丑年5月中旬金菅沢城主として古井川右近が入ったことなどが書かれています。
 上記文献とは別に永保2年(1082年)の記載とされる「越後太平記黒鳥退治」巻上のコピーを入手しました。また、神官であった山田在住の渡辺家の社家系図に定福寺入り(現在の城府が入り)に応徳年間(1084〜1086年)まで古川右近とその家族二人が住んでいて右近は六所神社の神官をしていたとの記載があります。この古川右近は元護摩堂山城主羽生田周防守豊之の家臣であった古井川右近が戦死後家族は散在し、その後古川と名乗るようになり、六所神社の神官であった古川右近もこの親族であるとも書かれています。もし、この記載が事実であれば、越後太平記の記載の一部は史実と一致している部分もあることになり、大変興味のある事実です。

2.南北朝の戦い
 鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇が隠岐から脱出に成功し、鎌倉幕府の築いた武家社会を崩そうとした事に対し、源氏の血を引く足利尊氏が挙兵したことにより南北朝の戦いが起きます。越後も二派に分かれて全域で戦いが起きます。この時も護摩堂近辺では金津で戦いがあった記録がありますが、護摩堂がどのようにかかわったかの確かな記録が得られません。
 
3.応永の乱
  これは先に書いたように守護と守護代との戦いです。この時の護摩堂城付近における戦いの様子は中条房資記に良く現されています。しかし、この記録は地元の土豪が、守護と守護代に分かれ、味方をしたり寝返ったりした複雑な状況の中で、中条房資が常に守護方についていたことを強調する目的で残したためか、戦いの詳細な年月日の記録がありません。

4.永正の乱
  この戦いも守護と守護代の戦いで、守護代長尾為景は守護方の上杉房能を攻めて自害させ、守護に上杉定実をたてます。ここで、自害させられた上杉房能の兄である関東管領・上杉顕定は、永正6年(1509年)に関東から越後を攻めます。このとき、護摩堂や三条は為景方に組みしていたようで、三条城は山吉氏、護摩堂城主は平賀氏が支配していました。越後名寄によると、上杉顕定は優勢で、越後のほとんどが攻め落とされ、6月6日には蔵王堂(長岡市)も落ち、為景方として残ったのは三条、護摩堂だけだったようです。この翌年、反撃に出た為景勢によって上杉顕定は永正7年6月20日に討ち取られてしまいました。このとき、護摩堂は蒲原をおさえる要所として死守されました。

5.永禄7年(1564年)5月に会津葦名兵の侵入
 永禄7年(1564年)5月に会津葦名兵が神洞(村松町蛭野の神戸城)と雷(村松町水戸野の雷城)に乱入した記録があります(御書集、東京大学文学部蔵)。これは乱入された城に護摩堂城も近く同時に影響を受けた可能性もあります。(1999.7.18日追加)

6.御館の乱
 天正6年(1578年)3月、上杉謙信が倒れると、互いに謙信の養子である景勝と景虎との間で戦いが起きます。これに呼応して会津の芦名氏の軍勢も景虎側として3月末に越後に侵入します。また、5月には景虎を支援するため、北条氏や武田勢が越後に攻め入ります。平等寺薬師堂内陣嵌板墨書によると、越後に侵入してきた芦名勢は5月28日には雷城(雷、現五泉市)へ退却、6月にかけて菅名荘近辺で敗退し平等寺(三川村)に逃れた時に、討ち死にした人の名前などを寺の嵌板(はめいた)に書いたものです。(新潟県史資料編5を参照)。
 ここから推測すると、護摩堂は景虎側に加わり、3月に越後に侵入してきた会津の芦名勢と一緒になって景勝勢と戦ったのではないかと推測します。護摩堂勢と一緒に戦っていた芦名勢は護摩堂が落ちたので退却、5月28日に雷まで退却したのではないでしょうか?。景勝は4月に神余氏を攻めて放火し、次に栃尾も攻め落としている記録もあります。景勝勢はこの余勢をかつて5月には護摩堂勢を攻め落とし、芦名勢も敗退させられた可能性が考えられます。

  この時、護摩堂近辺で景勝側に味方したのは菅名綱輔であり、一時は自分の地まで芦名勢が侵入しましたが景勝の応援もあって6月初めにはこれを追い出したことになります。このあと、芦名勢を追い出した景勝勢は再度三条城を攻略します。この時、三条城蒋神余新綱は部下の造反で殺されてしまいます。さらに、景勝勢は新発田重家を攻めますが決着のみない状態がつづきます。
  ここで、天正9年11月24日には甘糟景継(藤右衛門)が護摩堂城に在番することになります。これは北の新発田重家と東の芦名勢に対する守りの要所となりましたが、このあと新発田重家が滅ぼされるまで約5年もかかります。

 注;田上町広報誌「きずな」(20009.6号)によると御館の乱の緒戦の日である天正6年(1578年)6月11日、護摩堂城主平賀左京亮が居多口(上越市直江津)の戦いで景虎について御館に出向かい景勝勢に討ち取られたとした古文書が発見されたようです(反町文庫)。この書状が発見される10年以上も前に書いた「6.御館の乱」で「護摩堂は景虎側に加わり」とした私の推測が当たっていたことになります。上杉景勝書状。平賀左京亮が討ち取られた直後、護摩堂城は千坂対馬守に占拠されます。その後の天正9年11月24日には甘糟景継が護摩堂城に在番することになります。(2009.6.20追加)

 注;前記きずなでは、天文年間の護摩城主が母躰宗資であったとしています。しかし、この証拠とする高野山清浄心院の越後過去名簿には蒲原郡金津方護摩堂内母躰・・・・の記載はありますが、母躰宗資が城主であったとする記載はありません。また、参考資料とする「新潟県立歴史博物館研究紀要第9号」を見ても「母躰宗資が国人として成長し平賀氏の一族になった」とする記載も見当たらず、母躰宗資が護摩堂城主であったとする確かな証拠はありません。(2009.7.12追加)

注;新潟県五泉市橋田門前883にある吉祥寺の本堂には護摩堂城主であったと伝わる平賀左京亮盛義(ひらがさきょうのすけもりよし)の位牌が祀られています。
  甘糟景継はNHKの大河ドラマ 天地人パパイア鈴木が演じています。(2009.6.20追加)
7. 慶長5年の越後一揆

  慶長3年(1598年)1月10日に上杉景勝が会津に移された後の出来事で、関が原の戦いの最中に上杉景勝が旧領土であった越後の農民を捲きこんで起こした一揆です。慶長5年7月22日に上杉景勝の正規軍が80里越えを通って越後に侵入します。この時、各地でこれに呼応して農民が蜂起します、田上近辺では護摩堂山を始め、加茂、雷(現村松市)に一揆勢が立てこもったようです。落城の日の推定が間違っていてこの日が5月から9月に移ったので時期的には該当する可能性も出てきました。この戦闘では、農民が蜂起したと言っても、一揆勢は苅田を行って田を荒らした記録もあるので、田上近辺の農民が一揆に参加している様子は見られません。

結論
 落城の推定日に間違いがあり、この月が5月から9月に移りました。この結果、以上の調査結果からどれに該当するかは、今のところ結論を出すのが困難です。結論はもう少しお待ち下さい。

護摩堂落城の日について新しい発見がありました。!

新潟県燕市粟生津232にある真宗大谷派存念寺の縁起に下記記載が見つかりました。



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当山開基賢祐義は 当国田上護摩堂山の城主 小原民部ノ少輔俊影ノ二男俊春 承安二年(1172)生 承元三年(1208)三月十八日 行年三十七歳にして宗祖の弟子と相成り 法名を賢祐と賜う
 建暦元年(1211)夏四月十二日 有縁の地にて粟生津村に住居草庵を結び宝治二年(1248)四月二十六日 行年七十七歳にて遷化付り候 尤も人皇五十九代宇多天皇の末流也 尓るに小原民部小輔六代ノ末孫小原式部太輔俊之 元亀元年(1570)九月九日越後国主上杉謙信公の為めに遂に落城に及びけり・・・・       注;()内の西暦年は原文にはありません。
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何と落城の日は探し求めていた9月9日重陽の日そのものです。
存念寺ご住職小原秀一様の調査から、その落城の日については、かつて横越にあった中川家に伝えられている「親鸞聖人禿御影縁起」(かむろのみかげ)にも書かれていることがわかりました。同じ縁起は長野市松代の大谷派本誓寺(長野市松代町松代1309)にも保存されているとの事で、その信頼性は高いものと考えています。「親鸞聖人禿御影縁起」には伝承の通り、かつて親鸞聖人が護摩堂城を訪れ、護摩堂城主(宮崎但馬守と思われる)が親鸞聖人に帰依したことまで書かれています。
注;このペーシも参考になります。親鸞聖人袈裟掛の松
 
落城の日である元亀元年(1570)は上杉謙信が長尾景虎→上杉政虎→輝虎→謙信と改名して行く中で、ちょうどその名を謙信とした年です。縁起から推測すると、当時の護摩堂城主は一向衆に与していたと見られます。上杉謙信はこの護摩堂城を落城させるなど、越後における一向衆の勢力を鎮めてから翌年の元亀2年(1571年)8月には越中の一向一揆勢力と戦い富山城を落城させ、その年に越中の一向一揆勢力を制圧することになります。(皆さまのご意見もお聞きしたいと希望しています。)
(2009.6.20追加)


護摩堂山の動植物

おにしばり(オニシバリ、ジンチョウゲ科 学名 Daphne pseudo-mezereum)
  この地方では「夏ぼうず」と呼ばれています。呼び名のように夏に落葉し冬に葉が出る奇妙な特性を持つ植物です。東北地方以南に広く分布する植物ですが、この田上町は生育北限に近いせいか護摩堂山付近にしか見つかりません。オニシバリはこの樹皮が非常に強靭なことから付けられたものと考えます。この樹皮は和紙の原料にもなるそうです。雌雄異株、花は薄黄色で目立たない花をつけます。雌株は赤い実をつけますが有毒と言われています。

オオムラサキ
 大きくて美しく、日本の国蝶になったこの蝶は、かつて護摩堂山では比較的に多く見られ、県内では貴重な採集場所だったようです。ところが、この幼虫の食樹である榎木(エノキ)を昭和50年代の初期に伐採したため、現在はめったに見られなくなってしまいました。この蝶は平野よりも少し高い場所を好むようで護摩堂山はこの蝶の繁殖に適していたようです。護摩堂山をかつてのように美しい蝶の舞う山にするため、ぜひエノキを移植して昔の状況をとり戻してもらいたいと希望しています。アジサイだけでなく、美しい国蝶のたくさん舞う名所にしたら護摩堂山のイメージもさらに高まるものと期待しています。

以下2001.7.20日追加
  田上町の広報誌きずな2000年7月号によると下吉田の高橋務様が幼虫の食樹であるエノキと成虫の食樹であるクヌギを植えてオオムラサキの飛ぶ森を作る活動を始められたとの事です。ぜひ、この活動が成功することを期待しています。

サンショウウオ
 頂上付近の涌き水のある場所に生息していました。現在、この場所はコンクリートの暗渠にしてしまったので、生息は不明です。体長10センチ余りの小型のサンショウウオで、この地方では「センガムシ」と呼びます。雪解けのころに生まれる卵は、直線状に卵が配列しています。なぜか、ここのサンショウウオはサンショウの匂いは全くしません。幼少の頃は小児用の薬と言われていて良く食べさせられました。

クマゼミ?
 九州をはじめとして日本の南部にいるセミと同じ呼び名であり、この地方では「クマゼミ」と呼ばれているセミです。クマゼミと姿や形も良く似た比較的に大型のセミです。本当のクマゼミは気温が上がったせいか最近は東京でも見かけるようになりました。本来のクマゼミは「シャワシャワ」と鳴きますが、ここのセミは「ガー」と連続的に鳴きます。長岡市の山間部に生息するハルゼミと似た鳴方をしますが、サイズも繁殖する時期も異なります。残念ながら正しい呼び名は知りません。このセミは護摩堂山付近に局在して生息しています。護摩堂山頂付近以外で見つけるのは容易ではありません。

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護摩堂山の紫陽花

  新潟県南蒲原郡田上町にある護摩堂山の山頂付近に約3万本のアジサイの群生があります。このアジサイは人為的に植えられたもので、俗に言う西洋アジサイが多いのでカラフルなのが特徴です。あじさい寺を始めとして全国にはたくさんのアジサイの名所がありますが、このように比較的に高くて見通しの良い山にアジサイが群生しているのは珍しいものです。
  近年は、護摩堂山の紫陽花はすっかり有名になり、6月にはアジサイ祭りも行われ、多くの登山者で賑わいます。この祭りの呼び物である、日本一の記録を持つ274mのソーメン流しなどのイベントもあります。山頂付近からは越後平野を一望に見渡すことができ、この景色は抜群です。(護摩堂山頂の展望)山のふもとから頂上まで約40分で登ることができハイキングには最適です。また、ふもとには古くから知られていた湯田上温泉があり、登山の疲れを癒す最適の場所もあります。





護摩堂山頂付近のアジサイ 1998.6.28

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護摩堂山の紫陽花(アジサイ)の由来

護摩堂山のアジサイ  1998.6.28

  昭和40年の後半から、天然記念物に指定されているつなぎがやの自生地(護摩堂山頂上付近北東側の崖)の整備を町から委任されていた長谷川誠吾は、「この付近に花を植えて名所にしよう」との大きな夢を持ち、仕事の合間に、山頂付近に畑を作り、自前で黄花コスモスやダリアなどを植えていました。当時まだ比較的に珍しかった黄花コスモスは、群生するときわめて美しく、護摩堂山の風景とも良く合いました。しかし、1年草のこの花は、毎年種蒔きする必要もあり、維持管理が困難な問題がありました。別の案を考えている時に、東京都下神津島村の青年団が、アジサイを島中に移植して、観光の名所にしようとしていたことなどをヒントにして、護摩堂山にアジサイを移植することを決心し、一人で挑戦をはじめました。*注1

  まず、アジサイの苗を挿し木で増やす目的で、畑で挿し木を育成することから始めました。最初の苗は東京都都町田市に住む次男の庭から移植したものです。この時の畑は現在、若竹旅館(増築部分)のホテル小柳側の敷地になっている場所でした。護摩堂山に苗を移植した当初は、日照りによる立ち枯れなどの困難に見舞われたり、加茂農林高等学校の教諭から、「アジサイの移植は護摩堂山のような高山では適さない」などの意見をいただいたりしましたが、多くの困難に遭いながら、自前で移植を継続しました。

  この経緯が地方新聞の新潟日報に写真入りで掲載されました。幸運にも、この記事を神奈川県鎌倉市在住の佐藤秀三郎氏(田上生まれ、1936年ベルリン・オリンピック・マラソンコーチ)が読まれて感激し、多くのアジサイの苗木を寄贈することを申し出てくれました。長谷川誠吾も青年時代はマラソンでは負けを知らないほど強かったようですから何か因果めいたものがあります。

  この寄贈の話を契機にして、田上町も町としてアジサイの移植に取り組むことを決定し、町を挙げての本格的な移植作業がスタートしました。その後、移植は順調に進み、毎年の6月には町の事業として、アジサイ祭りが盛大に行われるようになりました。当初、このような状況になることを一人で夢見た長谷川誠吾は、その後癌に冒され、移植作業もできなくなりました。一時、病状も回復した時期もありましたが、病気は再発し、おりしも、フオト・コンテストなども盛り込んで盛況にアジサイ祭りが開催されている最中、護摩堂山の管理に功績があったとの理由で、永眠する5日前の日付で町からいただいた感謝状を目にすることなく、昭和57年7月7日に永眠しました。ここに掲載した護摩堂山のアジサイの写真は17回忌の法要(戒名寛山誠秀居士)が行われた日に撮影したものです。

注1;


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アジサイ

 この町の花であるアジサイは日本の原産です。原産地は伊豆七島の三宅島で、現在のガクアジサイが原種に近いと言われています。名前の由来は、「アジ」が集まる、「サイ」は青または藍で青が集まるとの意味だそうです。中国名に見える「紫陽花」は別の花を誤認したとの説もあります。現在の中国で、アジサイはポピュラーな花ではありません。Hydrangea macrophylla Ser.va.Otaksaの古い学名にある”Otakusa”は1823年に長崎の出島へオランダ商館医として派遣されてきたシーボルトの愛妻「楠本滝」から採ったとの話も有名です。現在の学名にあるHydrangea macrophyllaの”Hydro”はラテン語の「水」、「angion」は容器の意味であり、生育には水が多く必要で、乾燥に弱い植物です。
 
  一見花びらに見える部分はガクであり、本来の花ではないと小学校の理科でも教えています。しかし、花びらに相当する部分が全部ガクでできている西洋アジサイを「アジサイ」と呼び、原種に近く、花の部分が多いアジサイを「ガクアジサイ」と呼ぶのは不思議です。西洋アジサイを「西洋ガクアジサイ」原種に近いガクアジサイを「アジサイ」と呼ぶのが本当ではないでしょうか?。しかし、ガクアジサイのガクが額縁の額とすれば、額アジサイになって、やはり元の呼び名が正しいようで、なんだかややこしい話です。
 
  西洋アジサイは本来の花がないので結実しません。ガクアジサイは結実し、実生で増やしたり品種改良も可能です。どちらも、挿し木は容易で先端の部分を摘んで挿し木にすると、いくらでも増やすことが可能です。また、アジサイの花の色は土壌のpHやアルミニウムなどの金属イオンによって大きく変わると言われています。この傾向は、色の比較的に薄い在来種では当てはまる部分もありますが、西洋アジサイのように原色の強い色を出すように改良されたものではあまり当てはまりません。色の変化は、色素であるアントシアニンの不安定なフラビリウム構造によるとの説もあります。注 しかし、この発色の詳細は専門的にも難しく、すべてが明らかになっているわけではありません。自然は、人知を超えた複雑さも持ち合わせています。


注;  
 アントシアニンはA,B,Cと三つの芳香環を持つ化学構造で、その中のB環に結合する水酸基の数で発色が変わり、水酸基の数が三個になると青色が強くなることが知られています。この知見をヒントにして、青色のバラを作ることも可能となっています。 しかし、アジサイの場合は土壌を酸性にして、アルミニウムの吸収を良くするほど青の発色が強くなるとした、アルミニウムと青色発色の因果関係については、未だにうまく説明することができません
。素人の推定ですが、花色の変化を起こすアジサイの色素アントシアニンのB環に結合する水酸基は一個で、本来は橙色の色素ですが、これにアルミニウム錯体が立体的に混じることによって青色が強くなるものと思われます。金属表面の例では、青色は微細構造による構造色として最も作りやすい色でもあります。同じアントシアニン系色素ナスニンの色と言われている漬けナスの色も、ミョウバン(硫酸アルミニウムカリウム)の添加によって強い青色を発色しますが、これも似た理由によると考えます。

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護摩堂山頂を示す緯度・経度の謎

2003.2.11 追加

 田上町のシンボルでもある護摩堂山は数々の伝説もある興味深い山ですが、現在も観測できる不思議な一致を発見しました。偶然かも知れませんが興味ある事実です。

◎護摩堂山・山頂の緯度と弥彦山・山頂の緯度が完全に一致

(弥彦のポイントは弥彦山と多宝山の間にあるピークの頂上です。)


まず、護摩堂山頂の緯度と経度を調べて見ました。まず、国土地理院の「地形図閲覧システム検索インデックス」を利用します。
http://mapbrowse.gsi.go.jp/mapsearch.html
このページの「地名・公共施設名」による検索に検索文字「護摩堂山」を入れて検索すると
と、一つの検索結果が出ます。(この地図では、「護摩堂山」と言う山の名前は日本で一つしかないのがわかります。山を取って「護摩堂」としても富山県の護摩堂と石川県の護摩堂峠だけです。)
ここで、「地名注記 : 護摩堂山 (ごまどうやま) [新潟県] をクリックすると地図が現れ、右下方に護摩堂山があります。次に、頂上を示す三角印をマウスでクリックすると、
北緯37度42分49秒東経139度5分53秒 と出ます。

今度は http://mapbrowse.gsi.go.jp/mapsearch.html の検索画面に戻り、「地名・公共施設名」による検索で検索文字「弥彦山」を入れて検索すると
の二つの検索結果が出ます。ここで
をクリックして現れた地図の左下方に弥彦山があります。この文字の下方に頂上(本当の頂上ではありませんが多宝山の少し下のピークです、ここには何があるのでしょうか?)を示すと思われる長円形の中心をクリックすると、
北緯37度42分49秒,東経138度48分46秒
と出ます。
何と、二つの緯度は北緯37度42分49秒とぴったりと一致します。偶然にしてはあまりにも良く一致しています。護摩堂の山頂は人為的に作ることが難しい地質ですが、弥彦山頂にある目標の場所の地質は調べていませんが、人為的に盛り土してあると考えると興味が沸きます。古いタイプの古墳は自然地形を利用して盛り土して作った例が日本各地に見られます。地質に詳しい方ぜひ調査をお願いいたします。


20003.8.15に弥彦山の注目ポイントへ行ってきました。このポイントは6月に登ったとき、塚状になっていることを確認してあった場所です。今回は、携帯型としては比較的に精度の高いGPSを持参しました。このポイントはケーブルカーの終着地点から多宝山に向かって行く途中にあります。はじめに大平岡地と書いた場所のある丘がありますが、さらにその先の小高い塚状の丘です。意外なことに、ここには方位盤が設置されていました。早速、この方位盤の位置をGPSで測定して見ました。その測定値は

北緯  37度42分49秒7
東経 137度48分46秒7

となりました。測定精度は、ちょうど衛星の受信状態が良く、機器の測定限界である誤差4m以内です。一方、一等三角点でもある護摩堂山頂上の位置は平成6年6月国土地理院によって、高精度のGPSで測定され、その位置が下記に公開されています。(護摩堂山の頂上は城跡のある頂上ではなく、もうひとつのピークの位置にあります。)
http://cpservice.gsi.go.jp/kijunten2k/snk_inf2k.asp?tcode=5639405801
ここでは、緯度が37°42′49″.7204となっていて、今回測定した弥彦のポイントと持参したGPSの誤差範囲内では完全に一致しています。
弥彦にも一等三角点がありますが、この位置は今回測定したポイントよりも少し離れた、多宝山の頂上にあります。頂上ではない位置に方位盤が設置された理由は何でしょうか?。また、この位置が護摩堂山頂の緯度と完全に一致している理由は何でしょうか?。さらに謎か深まりました。(2003.8.16追加)


◎護摩堂山頂の経度と矢代田にある泥棒塚の経度が完全に一致

同じく、http://mapbrowse.gsi.go.jp/mapsearch.html の検索画面に戻り「地名・公共施設名」による検索に検索文字「矢代田」を入れて検索すると五つの検索結果の中に
が出ます。ここをクリックして現れた地図の右上部に矢代田があります。矢代田駅前から出て左に県道を曲がり、すぐに右の細い道を兎谷方向に行きます。兎谷に行く途中で「く」の字に曲がった道路の左側に不定形をした等高線があります。この中心が泥棒塚と思われます。ここをクリックすると、
北緯37度44分59秒,東経139度5分53秒となり、護摩堂山頂の経度である東経139度5分53秒とぴったり一致します。

この二つの一致の意味は何でしょうか?。偶然かも知れませんが、何か意味を持っている可能性もあります。ご意見がありましたらぜひ連絡をお願いいたします。

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